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| プレス・リリース 〜 08-17 〜 For immediate release:2008年8月6日 |
内殻空孔をもつ原子の観測に成功
− "シュレーディンガーの猫状態"の生成とその観測 −
高エネルギー加速器研究機構
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発表の骨子
大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構(KEK)を中心とするグループは、等価な原子からなる2原子分子に軟X線放射光を照射して、内殻の電子を失った原子を特定することに、世界で初めて成功した。日常の世界では知覚できない、量子論に特有な重ね合わせの状態(シュレーディンガーの猫状態※1)の解明につながる成果である。
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【概要】
大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構(KEK)物質構造科学研究所の柳下明教授のグループは、国立大学法人京都大学八尾誠教授のグループ、トリエステ大学P. Decleva教授のグループ、大学共同利用機関法人自然科学研究機構分子科学研究所小杉信博教授らと共同で、KEK物質構造科学研究所の放射光ビームラインBL-2Cを用いて、ファン・デル・ワールス力※2で結びついたネオン2量体であるNe2分子に軟X線放射光を照射して電子を放出させる光電離実験を行い、放出された光電子と、Ne2分子が解離して生成したネオンのイオン(Ne+およびNe2+)の同時観測※3によって、光電子を放出したネオン原子がNe2+イオンとして検出されることを突き止めた。他方、放出された光電子と、解離したネオンのイオン(Ne+およびNe+)の同時観測では、内殻電子がどちらのネオン原子から放出されたのか全く判別がつかないことも明らかにした。
量子論によれば、等価な2つのネオン原子から電子が1個失われる場合、どちらのネオン原子が電子を失い、どちらが失っていない状態であるかは観測を行うまで定まらない。Ne2分子を構成する原子はいずれも、2つの状態(電子を失った状態と失っていない状態)の重ね合わせの状態として存在している。このような状態は"シュレーディンガーの猫状態"と呼ばれている。
電子がどちらのネオン原子から放出されたのかを特定することは可能なのか、可能だとすれば、電子がどちらの原子から放出されたのかを特定するにはどのような観測を行えばよいのか。これらは量子力学の観測問題にかかわる基本的かつ重要な疑問である。本研究では、同時観測によって電子を放出した原子を特定することに世界で初めて成功し、これらの疑問に解答をもたらすとともに、観測事実が観測手法によって全く違って現れるという量子論に特有な現象も露わにした。
今回の成果は、米国物理学会誌「フィジカル・レビュー・レターズ」オンライン版に7月25日に掲載された。
【研究内容】
等価な原子2個からなる分子の内殻軌道から電子を1個放出させると、中性原子と1価のイオンとなって、分子の反転対称※4が破れることを示す分光データは既に得られており、このことから、内殻電子が失われてできる内殻の孔(内殻空孔)が局在することは、これまでにも間接的に立証されてきた。しかし、内殻電子を放出したのがどちらの原子かを特定するには至らなかった。内殻空孔は10-15秒程度の極く短時間で外側の電子によって埋められてしまう(オージェ崩壊※5)ため、局在した内殻空孔を持った原子を直接観測する実験はこれまでは不可能と思われていた。
本研究では、観測対象としてネオン2量体のNe2分子を用いた。Ne2はファン・デル・ワールス力で結びついた分子であり、原子間の距離が3.2Å(1Åは10−10m)と共有結合※6でできる分子よりも長いため、オージェ崩壊は一方の原子でのみ起こる(図1)。
Ne2分子が光電子放出後に、Ne+とNe2+の解離イオンに落ち着く時間スケールは、Ne2の回転周期に較べて3桁も早い。従って、光電離が起こった瞬間の分子軸は解離方向と同じと見なすことができ、光電子の放出方向に関する確率分布(角度分布)を分子の座標系で表す(光電子を放出した原子がどちらかを特定する)ことが可能となる〔図1の(3)(4)〕。一方、Ne2分子が光電子放出後に一旦Ne−Ne2+の準安定状態に到達し、そこから光を放出して2個のNe+の解離イオンに落ち着く時間スケールは長いので、その間に分子が回転し、最初にどちらの原子が光電子を放出したかの情報は失われる〔図1の(5)(6)〕。
本研究で実験によって得られた、分子の座標系で表した光電子の確率分布(角度分布)を図2に示す。図2aは図1の(3)(4)の過程での角度分布で、反転対称の破れを示していることは、光電子を放出したネオン原子(内殻空孔を持った原子)を特定していることの直接的な証となる。光電子を放出したネオン原子はオージェ崩壊後にNe2+イオンになるので、このデータでは、光電子を放出して生まれた局在した内殻空孔の情報は、左側で検出されるNe+イオンにではなく、右側で検出されるNe2+イオンに記録されていると言える。一方、図2bは図1の(5)(6)の過程の場合で、光電子の角度分布は左右対称となり、どちらの原子から光電子が放出されたかは特定できない。
【本研究の意義】
観測の方法によって観測されるものが全く違って現れるという量子観測の典型的な測定に成功し、内殻空孔の重ね合わせの状態に対する正しい解釈を初めて与えたものであり、基礎物理学に重要な貢献をするものである。また、本研究で明らかにした、内殻空孔の崩壊過程は、弱く結合した原子集合体で普遍的に起こる物理現象であるので、生体分子・溶液などの放射線効果で極めて重要な役割を果たしていると思われる。
なお、本研究は、平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(B))、平成19年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費)および平成19年度KEK物質構造科学研究所放射光共同利用実験により、KEK物質構造科学研究所の放射光ビームラインBL-2Cを利用して行われた。
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図1 :(Ne−Ne), (Ne−Ne2+), (Ne+−Ne2+), (Ne+−Ne+)のポテンシャル・エネルギー曲線 |
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は中性のネオン原子(Ne)、 は1価のネオンイオン(Ne+)、 は2価のネオンイオン(Ne2+)を表す。また、矢印の方向が、反応の進む方向を示す。
(1)Ne原子は当初3.2Å(1Åは10-10m)の距離にあり、ファン・デル・ワールス力で互いに引きあい安定した分子として存在している。(2)軟X線が照射され内殻電子が放出される(灰色の太い上向き矢印で表示)。すると、電子を放出した原子内では直ちにオージェ崩壊が起こり、分子は(3)もしくは(5)の状態に至る。(3)の状態の分子は、引き続き直ちに電子を放出してNe+とNe2+に解離する(4)。一方、(5)の準安定状態の(Ne−Ne2+)は光を放出して(6)Ne+とNe+に解離する。しかし、光を放出するまでの時間に分子は回転してしまう。
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図2 :Ne内殻光電子の確率分布 |
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今回の実験により得られた、光電子の確率分布。原点から立体図の表面までの距離が、その方向に放出される光電子の強度を表す。放出された光電子の運動エネルギーは一定(10eV)。
図(a)は、図1の(1)→(2)→(3)→(4)の過程を経て解離した分子の分子軸で表した、光電子の確率分布(角度分布)。解離イオン対の運動量の方向(Ne+−Ne2+)は、光電離が起こった瞬間(図1中の(2))の分子軸と一致するので、光電子の確率分布図は分子座標系から見たものとなる。光電子が右側のNe原子(Ne2+として検出される)から放出されたことを反映して、確率分布は左右対称となっていない。
図(b)は、図1の(1)→(2)→(5)→(6)の過程を経て解離した分子の分子軸で表した、光電子の確率分布(角度分布)。(5)のオージェ崩壊から(6)解離の間に分子が回転してしまうため、解離イオン対の運動量の方向(Ne+−Ne+)は、光電離が起こった瞬間の分子軸とは全く関係が無い。光電子はいずれか一方のネオン原子から放出されたにも関わらず、検出される解離イオン対は等価なので光電子の立体確率角度分布は左右対称となり、このデータからどちらのネオン原子から放出されたかを知るすべは無い。
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【用語解説】 |
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※1 |
シュレーディンガーの猫状態 |
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2つの異なる量子状態の重ね合わせの状態。一方、日常経験からは、巨視的な2つの状態(例えば、猫が生きている状態と死んでいる状態)の重ね合わせの状態は不可能であると考えられる−シュレーディンガーの猫のパラドックス。 |
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※2 |
ファン・デル・ワールス力 |
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原子あるいは分子の電気双極子モーメントに由来する、2原子あるいは2分子の間に働く分子間力。 |
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※3 |
同時観測 |
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内殻の光電離過程では、1回のイベントに対して複数の粒子が生成される。複数の粒子間の時間相関を測定することによって、それらの粒子は1回のイベントで生成されたものであることが認識できる。このような測定を同時計測法という。本稿では、同時計測法による観測を、同時観測と記述した。 |
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※4 |
反転対称 |
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原点に関して座標(x,y,z)の点を座標(-x,-y,-z)の点に変換することを反転操作という。反転操作によって変化しないものは反転対称である。反転操作は等核2原子分子に対してのみ対称操作であり、異核2原子分子については対称操作とはならない。 |
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※5 |
オージェ崩壊 |
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内殻の空孔に外側の電子が落ちたとき、そのエネルギーを他の外側の電子に与えて、これを電離する過程。 |
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※6 |
共有結合 |
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結合に関与する2個の電子が、平等に2つの原子核に属する状態で表される場合、それを共有結合という。 |
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