平成15年4月1日に高エネルギー加速器研究機構長に就任しました。巨大研究施設である高エネルギー加速器研究機構(KEK)をさらに発展させる使命を考えると、身の引き締まる思いで日々の業務に当たっています。素粒子原子核研究所には小林誠所長が、また物質構造科学研究所には小間篤所長が新しく就任しました。両研究所はKEKにおける学術研究の成果をあげる義務を負っており、両研究所長の手腕に大いに期待しているところです。
5月9日、電子・陽電子衝突装置KEKBは前人未到の性能を達成しました。衝突装置は、低いバックグラウンドの元でいかに多くの素粒子反応を起こさせるかによってその性能が測られ、特にルミノシティーという値が大きければ大きいほど衝突装置の性能がよいという評価になります。KEKBは、毎秒毎平方cm10の34乗という瞬間ルミノシティーを達成しました。この値は、10年前にはその達成が夢であると考えられていました。今回の記録を達成したKEKの加速器グループに敬意を表するとともに、私の機構長就任後1ヶ月でこのようなおめでたい快挙をなされたことに感謝します。
さて、私は、神岡において陽子崩壊やニュートリノ研究に長年携わり、最近まで研究現場に埋没しておりました。KEKには、K2K実験におけるニュートリノ生成で大変お世話になりました。しかし、KEKに関する現状や将来に関する深い認識が現在の私にあるとは必ずしもいえません。私の認識および考えは4月3日の機構長懇談会でご披露いたしました。本稿は懇談会での発言に加筆し、平易な表現に改めたものです。機構職員諸氏、さらにKEK外の一般の皆様にお読みいただき、ご指摘ご叱正を賜れば幸いです。
1.現状
高エネルギー加速器研究機構は、菅原前機構長のリーダーシップの元ですばらしい発展を遂げました。すなわち、トリスタン加速器による素粒子研究の推進、KEKB衝突装置の建設と更なる素粒子研究の発展、陽子加速器の有効利用によるニュートリノ研究の推進、放射光研究施設の発展、中性子・ミュオン施設の充実です。KEKは素粒子研究でスタートしたわけですが、加速器によって作られるビームを有効利用することにより、物質科学にも貢献する道を開拓してきました。このような研究分野の発展に伴い、旧高エネルギー物理学研究所は、東京大学原子核研究所、同理学部附属中間子科学研究センターを合わせて高エネルギー加速器研究機構に組織換えし、機構の下に、素粒子原子核研究所、物質構造科学研究所の2研究所、および加速器研究施設と共通研究施設の2研究施設が設置されたことはご存じの通りです。
前執行部による最大の贈り物は、なんといっても大強度陽子加速器、J−PARCでしょう。J−PARCは、日本原子力研究所との共同で推進する陽子加速器コンプレックスですが、現在東海村の原研敷地内で建設が進んでおり、素粒子・原子核研究と物質生命研究に画期的な成果が期待されています。
1−1.加速器研究施設
高エネルギー加速器研究機構を表すキーワードは「高エネルギー加速器」そのものであると考えます。したがって、加速器の設計、試験開発、建設、維持運転を行う加速器研究施設が、本機構の扇の要に位置しなければなりません。無論、加速器の仕様は学術研究上の要求によって決まりますが、加速器研究施設は、常に世界最高の技術を駆使して最先端の加速器にチャレンジしなければなりません。もし要求仕様が陳腐なものであれば、その建設を受け付けず、他の研究機関に紹介すればよろしい。上述のすばらしい記録達成は、加速器研究施設の戦略が見事に功を奏したことを証明しています。
1−2.素粒子原子核研究所
高エネルギー加速器を有効に利用して学術上の研究成果をあげるのが、素粒子原子核研究所と物質構造科学研究所です。素粒子原子核研究所は、世界をリードする2つの研究を行っています。BELLE実験は、KEKBの衝突点に置かれた実験装置を使って、B中間子におけるCP非保存の研究を行っています。CP非保存とは、素粒子の反応が粒子と反粒子で少し違いがあるという法則です。CP非保存則は、宇宙の成り立ちを規定したもっとも基本的な法則の一つと考えられています。BELLE実験は、すでにB中間子の詳細な研究から、CP非保存則の存在を発見しました。KEKB衝突器の記録的高性能に支えられて、引き続きCP非保存則の精密研究にチャレンジしています。
素粒子原子核研究所のもう一つの実験は、K2Kと呼ばれる実験です。KEKでミューニュートリノをたくさん作って250km離れた神岡に向けて発射し、神岡にあるスーパーカミオカンデ装置でニュートリノが期待通り観測されるかを確かめる、いわゆるニュートリノ振動実験です。文字通り日本を縦断する実験で、このような大規模な実験は世界に例をみません。ニュートリノ振動実験は、ニュートリノの微少な質量を測定する実験で、わが国はこの分野で世界のトップを走っています。K2K実験は、引き続きニュートリノ研究で世界をリードすべく頑張っています。
1−3.物質構造科学研究所
物質構造科学研究所は、加速器で作りだされる放射光、中性子、ミュオン等の2次ビームを利用した広範囲な研究を行っています。放射光、中性子は波長の短い波と考えられ、それらの波が物質中の原子で散乱される様子を詳しく観測することにより、物質の原子構造を調べることができます。放射光は重い原子でよく散乱し、逆に中性子は軽い原子でよく散乱します。放射光と中性子を使うことにより、物質の原子構造を異なった側面から観測できるわけです。いろいろな条件下での物質が研究対象になります。高温高圧下の岩石の化学構造、タンパク質などの生体物質やその機能、燃料電池内の化学反応などが例としてあげられます。
高エネルギー陽子と物質が反応したとき、パイ中間子がたくさん作られます。ミュオンは、これらのパイ中間子が崩壊したときに作られます。電子と比べると、質量が200倍ほど大きい以外は、その性質は電子と全く同じです。ミュオンを物質に入射すれば、ミュオンは「変な」電子として振る舞うので、物質中における電子の振る舞いを調べることができます。また、電子やミュオンは超微少な磁石でもあるので、物質の磁気的性質を研究することもできます。さらに、ミュオンを電子の代わりに使って重水素・3重水素の分子を作ると、ミュオンの大きな質量のために重水素と3重水素が核融合を引き起こします。このミュオン核融合がエネルギー源として実用になるかどうかは大変夢のある課題ですが、このような研究も行われています。
物質構造科学では、物質試料の善し悪しが研究上最も重要です。大学などの共同利用研究者は、KEKに試料を持ってきて、放射光、中性子やミュオンを照射し、そのデータを解析します。KEKの主な使命は、照射のお世話をすることです。
1−4.共通研究施設
KEKのもう一つの組織である共通研究施設には、放射線科学センター、計算科学センター、低温工学センター、工作センターがあります。名前の通りの業務を行っています。加速器研究施設、両研究所と密接に協力しあって、各種研究をサポートしています。むろん、各センターともに、各自のミッションに関する研究を行い、世界水準の研究・技術水準を保っています。今後は、さらに国際化を図る必要があるでしょう。
1−5.大強度陽子加速器計画推進部
J−PARCの建設に責任を持つ部です。既にJ−PARCは建設期に入っており、推進部は、各種委員会の組織、機器発注、原研との調整、地元対応等に追われています。完成時に開始される実験計画の募集が行われ、その予備審査が始まったところです。J−PARCの規模はKEKつくばキャンパス全体の事業よりも大きなものですから、その成否はKEKの存続に関わります。国際諮問委員会の答申を尊重しつつ、供用開始1日目から世界トップの研究に入れるよう、さらなる努力が必要です。また、J−PARCの組織形態は、その議論が始まったばかりですが、最大限の研究成果をもっとも効率的に出す組織であるべきなのはもちろんです。さらに、KEKの加速器グループが主体的に建設し、完成の暁には両研究所の職員が研究を行うわけですから、KEKの世界的名声をさらに高からしめるようにしなければなりません。
1−6.技術部と管理部
あと、技術部と管理局があり、KEKの技術サポート、事務業務を行っています。私の両組織に対する現状認識は率直に言って深いものではありません。両組織に関しては、平成16年度から始まるKEKの法人化に向けて、最良の組織形態とするべく議論が進んでいます。議論の推移を見つつ、機会がありましたら現状認識を紹介させて頂きたいと思います。
2.KEKの今後について
菅原前機構長をリーダーとする前執行部のご努力により、KEKの将来に関して多くの検討及び決定がなされており、現執行部はその実現を図ることに努力を傾注することになります。KEKの今後についていくつかのコメントをしたいと思います。
2−1.法人化
KEKは平成16年度から大学共同利用機関法人となります。幸い、KEKは現在の形態のままで法人化するため、言葉を換えていうと、KEKは組織改造を前倒しして行ったため、法人化においても他の大学共同利用機関法人のような産みの苦しみはありません。両研究所、両研究施設は、当面現在の体制で動くことになります。変更になる大きな点は、現在の機構および研究所等にある評議員会、協議会(複数)が経営協議会、教育研究評議会(単数)になり、機構長が両委員会の議長になります。これは、法人化の目的の一つが、トップのリーダーシップの強化にあるため、そのようになったと理解されます。研究所、研究施設の評議員会、協議会等は運営委員会という内部組織になります。しかし、現在のKEKの委員会は大変よく運営されているので、今後とも、共同利用者の意見を十分吸い上げる委員会運営に心がけます。KEK職員は、法人化後には公務員ではなくなるため、新しい規則の設計が必要になります。しかし、法律で謳われているように職員の権利義務は継承されるので、その処遇に対して大きな変更はありません。
しかし、KEKの経営及び研究に関する評価は大変厳しくなりますので、我々も常に自己点検を行い、研鑽に努める必要があります。また、KEKに大きく貢献した個人またはグループの処遇に配慮を加え、インセンティブを高める方策は今後の検討課題だと思います。また、ほとんど没交渉の(と私には映る)各部局が、最大限の研究成果をあげるべく、KEKの名の下にお互いの連携を深め、努力していく必要があります。今後、研究に対する機動的な対応も求められるでしょう。
素粒子原子核研究所では、職員が各プロジェクトで主要な貢献をしているので、その評価はわかりやすいと思います。物質構造科学研究所では、外部ユーザーによるビーム利用が主であるため、ユーザーのサポート業務を研究所の成果として正当に評価するようにしなければなりません。しかし、ユーザー対応だけではなく、研究所職員も物質・生体試料の作成等にも積極的に参加し、研究の面でも高い評価を得る必要があります。加速器研究施設、共通研究施設の各センターは、両研究所が行う研究へのサポートが評価対象の一つになるでしょうが、ほかにどのような業績が評価対象になるか、たとえば施設における共同利用研究や技術移転等を考え、それらを推進する必要があるでしょう。
いずれにせよ、法人化をチャンスと捕らえ、よりよい方向に変えていくという、ポジティブ思考が今もっとも必要です。要は、国民の負託に応える世界的な研究成果を定常的にあげていけばいいのです。そうすれば、KEKはさらに発展していきます。
2−2.J-PARC
既に現在計画というべきですが、KEKにとってJ−PARCの推進が最も重要です。加速器建設は予定通り仕上げなければなりません。大事業の常として、計画時に想定しなかった問題が出ることは当然です。要は、そのような事態に、いかに機敏に正しく行動するかです。加速器研究施設、素粒子原子核研究所、物質構造科学研究所が当事者意識を持ち、推進部と一緒に最大限の努力をしなければなりません。また、共通研究施設による放射線管理、計算機および情報通信資源、超伝導技術の積極的導入など、すでに大きな貢献をしていますが、原研との共同作業等にさらに努力されるようお願いします。
J−PARCでは、世界最大強度の中性子、ミュオンによる物質構造、生命機能の研究に画期的な進展が期待されます。中性子研究では原研にも強力なグループがあり、J−PARCにおいてKEKと共同して研究していくことになります。私は、原研との密接な協力関係とともに、健康的な競争関係をぜひ保って頂きたいと思います。また、KEKの伝統である共同利用をJ−PARCにおいても積極的に推進しなければなりません。KEKは、法人化後であっても、研究員等旅費等、共同利用のための経費は確保します。
素粒子・原子核関係の懸案はニュートリノ実験です。前執行部のご努力と小柴先生がノーベル賞を受賞されたこともあり、第2期に予定されていたニュートリノビームラインを早期着工すべきという機運が大いに高まっています。ニュートリノ実験の早期実現にがんばっていきます。
2−3.リニアコライダー計画
わが国の関連研究者が推進しているリニアコライダー計画を日本に誘致すべく努力したいと思います。ご存知のように、リニアコライダーは、欧、米、亜、3極の素粒子研究者が一致して推進しようとしている、電子・陽電子衝突型の巨大加速器です。電子・陽電子ビームのエネルギーを極限まで上げ、いわゆるエネルギーフロンティアを目指す計画です。第1期では、ビームエネルギーを250ギガ電子ボルトとし、第2期計画として500ギガ電子ボルトにあげます。
リニアコライダーによって、素粒子物理学で最も重要な質量の起源を探究します。素粒子の質量は、ヒッグス機構という、真空の特質で生まれてくると考えられています。ヒッグス機構は、その直接的予言として、ヒッグス粒子という重い新素粒子の存在を予言します。リニアコライダーはヒッグス粒子を発見するだけでなく、ヒッグス粒子の性質を精密に調べます。さらに、究極の素粒子理論の構築に必須と考えられている「超対称性」という特性が実在するかどうかも、リニアコライダーがチャレンジすべき大きな課題です。
電子・陽電子ビームのエネルギーが250ギガ電子ボルト以上になると、強烈なシンクロトロン放射の影響でLEPのような円形加速器は使えず、放射光発生の心配がない直線型加速器、いわゆるリニアックに頼らざるを得ません。電子・陽電子を衝突させるためには、2台のリニアックが必要で、かつ円形加速器のようにビームを周回させて有効に使うことが出来ないので、ビーム強度を上げ、かつビームの断面を極端に小さくする必要があります。
このような厳しい仕様のリニアコライダーを実現するためには、持てる技術と人力を総動員して取り組む必要があります。また、リニアコライダーの建設費も膨大なものになります。このため、欧米亜の研究者は設計段階から協力して、リニアコライダーを世界で1台だけ建設しようと努力しています。すでに国際的な委員会が出来ています。日本とドイツは、リニアコライダー建設の具体的な提言をしました。日本は、アメリカのSLACとの共同研究で開発してきた常伝導加速管とXバンドと呼ばれる高周波電力を用いる方式を提案しています。常伝導技術のため、ウオームテクノロジーと呼ばれています。ドイツの提案は、極低温に冷やした超伝導加速管とLバンドと呼ばれるXバンドの8分の1の周波数の高周波電力を使う方式です。超伝導技術を使うので、コールドテクノロジーと呼んでいます。世界に1台のリニアコライダーを目指すのですから、ウオームかコールドのどちらかのテクノロジーを選ばなければなりません。委員会は、来年にもテクノロジーを一つに絞り、世界の研究所を挙げて試験開発を開始しようとしています。試験開発のめどが立った時点で、各国間で、いわゆるサイトの誘致が始まる予定です。
わが国研究者の戦略は、ウオームテクノロジーを採用し、サイトを日本に誘致することです。KEKは、ウオームテクノロジーの試験開発をSLACと共同して強力に推進し、世界のその優位性を示します。さらに、この実現に努力するため、わが国の各方面に、その必要性を訴えていきます。リニアコライダー建設には、ナノテクノロジー、大電力マイクロウエーブ技術、超精密加工等、スペースステーションに匹敵する総合技術力が必要です。もし、日本誘致が成功すれば、わが国の技術レベルのアップに大きな貢献をすることは確実ですし、世界にわが国の科学力、技術力を大いにアピールするショーウインドーになります。
2−4.つくば及び東海キャンパスの将来
リニアコライダー計画の進捗状況にもよりますが、KEKは、素粒子・原子核研究を引き続きつくばキャンパスで行う必要があります。新記録を達成したKEKBのルミノシティーをさらに10〜100倍あげ、超対称性の効果をB中間子システムで研究したり、大量に作られるタウレプトンのまれな崩壊を研究する計画、いわゆるSUPER−KEKB計画が、KEKBグループとBELLEグループによって検討されています。
東海キャンパスは、当面J−PARCによる研究で手一杯ですが、将来、J−PARCの更なる大強度化構想がかならず出てくるでしょう。しかし、時期的に見ると、つくばキャンパスの整備が先になると思います。
物質構造科学研究所は、独自のミッションから、また、今後さらに需要が増えることが確実な放射光利用をさらに進めるため、つくばキャンパスにおける放射光施設の整備に着手しなければなりません。
3.おわりに
いろいろ書かせていただきましたが、目新しいことが何もないことにお気づきのことと思います。私の発想の貧困さにもよりますが、前執行部により、今後進むべき道筋をしっかりと付けていただいたことも、理由のひとつです。
しかし、想定しないような事態が起きることは常に考えておく必要があります。たとえば、高エネルギー加速器の定義を広域化して、宇宙における粒子加速やビッグバンの研究も、将来KEKの研究領域に入ってくるかもしれません。法人化後には、あらゆる事態に機敏に対応する体制を考える必要があります。
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