素粒子実験で出現し崩壊してゆく素粒子たちの振る舞いを知るには、ナノ秒の時間を計れる時計が必要でした。このため開発された時計の心臓部の働きをするのがTMC回路です。回路の中には色々な役割と機能を持った方式や工夫が、日ごろ聞きなれない言葉で示されています。ここではそうした言葉を気にせず、それが持つ役割や機能に注目して読んでいただきたいと思います。
TMC回路での工夫
簡単にTMC回路の働きについて説明しましょう。図1に示すように、TDC(時間-デジタル変換器)回路にはいろいろな方式が有りますが、信号の処理に時間がかかるアナログ方式や、デジタル情報を超高速で続けて転送する記憶機能を持つシフトレジスターを使った場合は、高速、高密度には出来ますが、消費電力が掛かるなど、これらをただ組み合わせただけでは技術的要求をすべて満たすことは出来ません。そこでデータの蓄積にはデジタルメモリーを使用し、高速クロックの代わりに、信号の伝播時間を遅らせるゲート遅延と呼ばれる方式を働かせて要求を満たすTMC
回路が考案されました。しかしながら、ゲート遅延方式は電圧や温度により大きく変わってしまうので、何らかの方法で安定化させる必要があります。そこでゲート遅延を安定化させるためにPLL(Phase-Locked Loop : 位相同期ループ)回路を使用しました。これは外部からの安定したクロックに同期させて、内部発振器の位相を合わせる回路です。こうした開発に関連し、2件の特許が取得されました。
PLLの働きを例で説明しておきましょう。実はこのPLL回路というのは、第二次世界大戦中のレーダに使われるなど歴史は古いのですが、現在でも最先端のCPU(コンピュータの心臓部)に使われるなどと活躍しています。今正確に1分を測りたいのだけれど、進んでいるのか遅れているのかわからない時計しかないとします。時間の基準にできるのは、隣の部屋から毎時聞こえてくる時報だけです。この場合、まず何時間かかけて自分の時計の進み具合が時報とピッタリ一致するように調整します。一旦進み具合が合えば、手元の時計を使って正確に1分を測るのは簡単です。このように、遅いクロックを使いながらも非常に短い時間を測れるようにしたのが、TMCの時間測定部です。もう一つ工夫したのが発振回路です。発振器はインバーターを何段かつなげて位相を反転させることで作ります。ところが、これですと3, 5, 7といった奇数段のものしか出来ず、2, 4, 8といった2のべき乗の段数が欲しいデジタル回路と合いません。そこで最初の半周期は7段のインバーター、次の半周期は9段のインバーターを切り替えて通るようにして、2つの奇数段から1周期当たり16(偶数)段で発振する非対称リング発振器(Asymmetric Ring Oscillator)を作りました(図2)。
こうして短い時間信号を得られるようにしたものに、長い時間を測るためのカウンター、連続的にデータを測定できるようにするためのバッファー、トリガー信号により必要なデータだけを選び出すマッチング回路等を加えていってTMCチップが完成します。前回紹介したアトラス実験で使用予定の最新チップAMT(ATLAS Muon TDC)-2のブロック図を図2に示します。AMTチップは0.280 ナノ秒間まで信号が分解でき、100.000ナノ秒もの時間の記録が可能で24チャンネルの入力ができます。また、チャンネル当たりの価格は従来の10分の1以下に出来ました。この技術開発は高く評価され、KEKの新井康夫博士は2001年のLSI IPデザイン・アワード開発奨励賞を受けています。
今後の計画
現在、ジュネーブ(スイス)郊外のCERN研究所で建設中の世界最高エネルギーの加速器LHCのATLAS実験で使用される高精度ミューオン飛跡検出器(MDT)用にAMTチップの開発を行っています。これは40万チャンネルも使用され、しかも放射線環境下に置かれます。写真1にAMTチップをMDTに取り付けて試験している様子を示します。このチップは放射線耐性の試験なども行った後、まもなく量産される予定です。またこの他、宇宙科学研究所と共同で、2004年打ち上げ予定の月探査衛星SELENEや、2009年打ち上げ予定の水星探査衛星BepiColomboへ搭載予定のTMCの開発も行なっています。ナノ秒という微小な時間の計測技術が宇宙という広い世界の謎の解明にもつながるとKEKの研究者の夢は広がり続けています。
※もっと詳しい情報をお知りになりたい方へ
→ATLAS TDCのwebページ
http://atlas.kek.jp/tdc/
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