陽子や陽電子ビームが蓄積されているリングでは、ビームパイプ内面から放出された電子(光電子や二次電子)がビーム軌道方向に引き付けられ、ビーム軌道の周辺に電子の集団が形成されることがあります。これを"電子雲(Electron Cloud)”と呼んでいます。電子雲の密度が高くなると、周回しているビームと相互作用を始めます。すなわち、あるバンチの"揺らぎ”が電子雲を介して後続のバンチ(あるいは自分自身のバンチ)に力をおよぼしてしまいます。これが電子雲不安定性と呼ばれるものです。この不安定性は、バンチの垂直方向サイズの増大などを引き起こし、加速器の性能に悪影響を及ぼします。この不安定性は、低エミッタンス・大強度を目指す近年・将来の陽子・陽電子蓄積リングでは大きな問題となっています。
電子雲不安定対策の基本は、電子雲の種となる、ビームパイプ内面からの光電子や二次電子の放出を抑えることです。これまでにも様々な手法が研究され、一部は実用化されています。以下に主なものを挙げてみます。
ソレノイド磁場
ビームパイプに電線をソレノイド状に巻き、ビームパイプに沿った磁場(ソレノイド磁場)を発生させます。磁場強度は数十ガウス〜百ガウスです。磁場は弱いのですが、パイプ内面から放出された直後の電子のエネルギーも十eV程度が主体なので、壁から出た電子は磁場で曲がり戻ってきます。結果的にビーム軌道近傍の電子数を減らす事ができます。シミュレーションや実験では、一様な磁場中においてはビーム軌道近傍の電子数がソレノイド磁場無しの場合に比べ数百分の一に減ることが示されています。KEKBでは、電磁石部以外のドリフト部の大部分にソレノイドを巻いた結果、バンチサイズが増大するビーム電流の閾値が高くなることを実証しています。PEPII陽電子リングでも使用されていました。ドリフト部に対しては非常に有効な対策です。
内面コーティング
ビームパイプ内面に、光電子や二次電子放出率の小さい材質を薄く(数百nm)コーティングする方法です。これまでによく使用されているのはTiN(窒化チタン)、NEGポンプ材料(Ti, Zr, Vの混合)です。TiNは、SLACのPEPII陽電子リングでも約10年間使用されてきた実績があります。NEGポンプ材料のコーティングは、それ自体がポンプになるという、真空システムの立場からもメリットがあります。当然ガス放出も小さくなります。この他、アモルファスカーボンコーティングも最近活発に検討が進められています。これらコーティングの効果は、大まかに言って、コーティングしていない銅表面の数分の一まで電子密度を下げることができます。
アンテチェンバー方式
特に陽電子リングの場合、電子雲の種は主に放射光が内壁に照射された時に発生する光電子です。したがって、まずは光電子を抑制することが肝要となります。ここで言うアンテチェンバーとは、ビームが通る部分(ビームチャンネル)の傍にあるチャンネルの事で、放射光をビーム軌道から遠く、かつ狭い部分に照射することにより光電子の影響を低減することができます。KEKB陽電子リングを用いた実験では、低ビーム電流領域(光電子が支配的な領域)では、ビームチャンネル内の電子数を単純な円断面のビームパイプの場合に比べて百分の一程度に低くできることを確認しました。ただ、ビーム電流が高くなり、二次電子が支配的になってくると効果が薄まってしまいます。また、電磁石中では、直接光で放出された光電子はもともと磁場の効果でビームに近づき難いのでアンテチェンバーのメリットは少なくなります。ただ、反射光を抑える効果はあります。
上に挙げた方法は、特にソレノイド磁場を使用すると、電磁石部以外のドリフト部では非常に有効なものです。しかし、電磁石の中、特に偏向電磁石やウィグラー電磁石の中に対しては、内面コーティングとアンテチェンバー方式が使用できますが、使用しない場合(銅丸パイプの場合)に比べてせいぜい一桁電子密度を下げる程度の効果です。リングの光学系にも依存しますが、これら電磁石のリングに占める割合が高いと、ドリフト部で電子雲を十分下げても電磁石内の電子雲が最後には影響する、という事態になります。実際、KEKB陽電子リングでは、ドリフト部の90%以上をソレノイド磁場や永久磁石の磁場で覆ってはいますが、バンチ間隔が短い蓄積モードでは依然として電子雲不安定性が観測されており、その原因の一つとして電磁石内の電子雲が指摘されています。このような状況から、近年電磁石内でも効果の大きい手段の開発・研究が注目されている。KEKでは、数年前から、下記に示すグルーブ表面とクリアリング電極の二つの手段について、KEKB陽電子リングを使用して開発・試験が行われました。同様の研究は、SLAC、Cornell大学、CERN等でも行われています。ここでは、これらの対策手段とこれまでの実験結果を簡単に紹介します。
グルーブ表面
ビームパイプ内表面に、図のようなグルーブ(溝)を設けることで、二次電子放出率を"実効的"に減らすことができます。グルーブの底の部分や側面で放出された二次電子は、表面の構造的な制限によりビーム側にもどる確率が少なくなるからです。グルーブ構造は、磁場の無い場合でも有効ですが、磁場中ではさらに効果が高まります。先に述べたコーティングを併用することもできます。図は三角形のグルーブですが、他に四角形のグルーブもあります。しかし、磁場強度に対する依存性が少ないことから、ここでは三角形のグルーブに注目しました。
KEKでは、KEKB陽電子リングのウィグラー電磁石内に電子雲対策実験用のテストチェンバーを設置し、このグルーブ表面や次に述べるクリアリング電極の実験を行っています。ウィグラー電磁石の磁場強度は中心部で0.78Tです。テストチェンバー上部のサンプルを交換することで各種グルーブ表面について比較が可能となっています。テストチェンバー底部にはチェンバー内の電子数を測定する電子モニターが仕込まれています。この電子モニターによって、各種サンプルを使用した場合のビーム軌道付近の電子密度を調べることができます。グルーブの実験では、角度や頂点(底点)の丸み、材質、表面へのTiNコーティングの有無など条件を変えて比較しました。
これまでの測定では、TiNコーティングを行った平面の場合に比べて、同じくTiNコーティングを行ったグルーブ表面ではチェンバー内の電子数は1/2〜1/6に減少することが分かりました。また、TiNコーティングを施さないグルーブでもTiNコーティングした平面と同等〜1/2の密度となることが分かりました。構造的には、やはり角度が鋭角なもの、先端の丸みが小さいものの効果が大きいという傾向が見られました。実際の構造については、インピーダンスや製作性の観点から最適化が必要となります。
クリアリング電極
ビームパイプ内に設置した電極に正電位を印加し、パイプ内の電子を電極で吸い取ってしまう方法で、最も直接的な方法です。この電極をクリアリング電極と呼んでいます。シミュレーションでは、磁場を横切るように壁際に置かれた電極に数百Vの電圧を印加することでビーム軌道付近の電子数が百分の一以下に減ることが示されています。クリアリング電極自体は、以前イオンを除去するために用いられたことがありますが、電子・陽電子リングやビーム電流が大きい加速器では、電極のインピーダンスの影響や発熱の問題から実用に供することはありませんでした。
KEKでは、ビームパイプ内面に、絶縁層(アルミナ)と電極層(タングステン)を溶射と呼ばれる手法で薄く(それぞれ0.2mmと0.1mm)形成することで、非常に薄いクリアリング電極を実現しました。電極を薄くすることでビームに対するインピーダンスの影響が少なくなり、また、内壁に密着しているため入熱を速やかにビームパイプに逃がすことができます。
このクリアリング電極についても、上に述べたグルーブ表面の実験で使用したものと同じ装置でその特性を評価しました。その結果、TiNコーティングを行った平面の場合に比べて百分の一以下に電子数を抑えることができました。これは陽電子リングでその効果を実証した世界初の結果でした。また、KEKBでの1.6Aビーム蓄積時でも、電極の発熱はほとんど問題にならない程度でした。
KEKで行ったグルーブ表面とクリアリング電極の実験結果は、世界的にも注目され、例えばILCの陽電子ダンピングの電子雲対策検討への貴重なデータとなっています。特に、Cornell大学のCESR-TAプロジェクトでも、KEKで製作したクリアリング電極を用いた実験が超電導ウィグラー電磁石内で行われ、KEKとほぼ同等の大きな電子雲低減効果が実証されました。グルーブ表面についても、やはり平面に比べて約1/2程度の低減効果があることが示されています。
KEKでは、これまでの実験結果を踏まえ、KEKBアップグレード時には、グルーブ表面を偏向電磁石部に、クリアリング電極をウィグラー電磁石部に採用すべく検討が進んでいます。
〜 記事提供 : 加速器第三研究系 末次 祐介 氏 〜