KEKで進められているBelleグループの「CP対称性の破れ」を探る実験についてはこれまでにも何度かご紹介しました。この実験のよりどころとなっている「小林・益川理論」は、現在では素粒子物理学の基礎となる「標準理論」として世界中の素粒子物理学者に認められていますが、この理論は、小林誠氏(KEK素粒子原子核研究所長)と、益川敏英氏(京都産業大理学部教授、前京都大学基礎物理学研究所長)が30年前に書いた一本の論文が元になっています。当時、小林氏は28歳、益川氏は33歳でした。
標準理論は3世代
これまでに発見された素粒子には、強い相互作用に関わるクォークと、関わらないレプトンとがあります。不思議なことにこれらの素粒子は、質量だけが異なり他の性質がまったく同じ3つの組に分類することができ、これらの組のことを、「世代」と呼んでいます。(図1)
第1世代のクォークはアップ(u)とダウン(d)で、陽子や中性子といった核子は、これらの組み合わせ(陽子はuクォークが2つとdクォークが1つ、中性子はuクォークが1つとdクォークが2つ)でできています。核子がいくつか組合わさって原子核をつくり、原子核のまわりに電子がまわって原子を作りますが、電子も第1世代のレプトンなので、ふつうに自然界に存在している物質はすべて第1世代の素粒子でできていることになります。
ところが、粒子を加速してより高いエネルギーで衝突させる実験の中では、第1世代の素粒子だけではその生成や崩壊パターンを説明できない数多くの粒子が観測されます。最初に発見されたのは、「奇妙さ」と名付けられたストレンジネスをもつ粒子で、現在では第2世代のストレンジ(s)クォークを含む粒子と解釈されています。
世代間の「交流」を生むカビボ角
図1では、アップクォークとダウンクォークは対にして書かれていますが、これは弱い相互作用がこの対に対して働いてダウンクォークをアップクォーク(あるいはその逆)に変える性質があるためです。例えば、中性子のベータ崩壊ではダウンクォークがWボソンを媒介にしてアップクォークに変わります。もしこの「対」の関係が完全だったら、世代の異なる粒子は互いに移り変わる手段がないので、先ほどのストレンジクォークは一度生成されると壊れることなく自然界に残ってしまいます。実際にそうなっていないのは、「対」の関係が少しだけねじれているためで、アップクォークと対になるのは、ダウンクォークとストレンジクォークをある割合で混合したものになっています。つまり、ストレンジクォークは弱い相互作用を通じてアップクォークに移り変わることができるわけです。このねじれの具合いを平面上で表すと(図2)のようになり、ねじれの大きさはカビボ角と呼ばれています。
CP対称性の破れの謎
1964年、「奇妙な」粒子の一つである中性K中間子(ダウンクォークとストレンジ反クォークの束縛状態)の崩壊が、わずかにCP保存則を破っていることが発見され、大きな驚きを与えました。CP保存則というのは、粒子と反粒子を入れ替えた世界(荷電反転)の物理法則は、ちょうど我々の世界を鏡で見た時(空間反転)と同じになっているはず、という、素粒子理論の対称性です。当時はその対称性の破れを自然に説明できる理論などなかったのです。
小林と益川の両氏は1973年、3世代のクォークを導入することで、CP対称性の破れを自然に説明できることを示しました。3次元の軸(ダウン、ストレンジ、それにボトムクォーク)の間のねじれは3つの角度で表すことができますが、混合の仕方が複素数を含むと、6つのクォーク場の位相回転では吸収しきれない複素位相が残ることがわかります。複素数というのは高校の数学で習ったことがある人もいるかもしれません。日常の生活では「数」といえば「実数」を意味することが多いのですが、素粒子の世界では、実数と虚数を組み合わせた複素数という、不思議な性質を持った数が、方程式の中に出てきます。小林・益川理論の特徴は、クォークの状態に複素数の空間での回転を与えると、複素数の位相という自由度が出てくることを指摘したことでした。この複素位相がCP対称性の破れを与えるのです。この複素位相は2世代では残らないので、CP対称性の破れを説明するには3世代目のクォークを導入することが必要だったわけです。
「三つのクォーク」の時代に「クォークは六つ」を予言
当時はまだ第2世代のもう一つのクォークであるチャーム(c)クォークも見つかっていないときでしたから、小林・益川理論の予言は驚くべきものでした。しかし、1974年にはチャームクォークが、1977年にはボトム(b)クォークが見つかり、最後まで残ったトップ(t)クォークも1995年に発見されて、3世代の素粒子模型は確立されました。
小林・益川理論のもう一つの重要な予言であるCP対称性の破れを調べるために、KEKでは非対称Bファクトリー加速器(KEKB)を建設してB中間子(ダウンクォークとボトム反クォークの束縛状態)の崩壊でCP対称性の破れの大きさを測定する実験を行ってきました。その結果、CP対称性の破れは小林・益川理論が予言するものとぴったりと一致することがわかり、2001年にその正しさが証明されたのです。KEKでは、小林・益川理論の検証に成功した後も、さらなる精密検証と標準理論を越える物理現象の探索に向けて実験を続けています。
アメリカのスタンフォード線形加速器センター(SLAC)には高エネルギー物理学分野の論文を集計するデータベースがあります。小林・益川両氏の論文は今から30年前に書かれたものですが、このデータベースによる集計が始まって以来、単独の論文としては歴代二位の引用数を誇る、有名な論文となっています。
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[図1] |
素粒子の標準理論の世界。物質は6種類のクォークと6種類のレプトンからなり、ゲージ粒子を交換して3種の力が引き起こされる。 |
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[図2] |
弱い相互作用はアップ(u)クォークとダウン(d)クォークの対に対して働くが、この対の関係は少しだけねじれており、実際にはダウン(d)クォークにストレンジ(s)クォークが少しだけ混ざったもの(d')とアップクォークが対をつくる。この混ざり方の度合いを角度で表し、カビボ角と呼ぶ。 |
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[図3] |
B中間子の崩壊においてCP非保存を引き起こす反応。トップクォークとダウンクォーク、ボトムクォークとアップクォークの間に働く世代間の混合がCPの破れをもたらす。 |
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[写真1] |
2001年9月26日にKEKで開かれた「CP対称性の破れ発見」講演会時におさめられた小林(写真左)・益川両氏の写真 |
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[写真2] |
京都大学理学部助手時代の小林(後列左端)・益川(前列左)の両氏 |
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