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J-PARC稼働の年へ 2008.1.10 |
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〜 大強度陽子加速器計画の立案から建設まで 〜 |
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明けましておめでとうございます。今年はKEKにとって様々な転機を迎える年となりますが、その中でも、日本原子力研究開発機構と共同で東海村に建設中の大強度陽子加速器施設(J-PARC)がいよいよ実験のための運転を開始します。 J-PARCセンター長の永宮正治教授にお話をうかがいました。 計画立案からの長い道のり −実験開始を目前に控えていますが、永宮センター長とJ-PARC計画との関わりについてお聞かせください。 J-PARCがKEKと日本原子力研究所(当時)との共同企画として意識されるようになったのは、1998年の秋のことでした。でも、私や、私の周りにいた関係者の心の中には、そこに至るまでのプランがずっとあったのです。 今から34年前、1974年の物理学会で「高エネルギー重イオン加速器による原子核物理学」というシンポジウムが開催され、私は当時米国カリフォルニア大学バークレイ研究所で計画されていた「Bevalac」という加速器の実験の紹介をしました。同じ頃、日本でも重イオンを加速できる加速器を作ろうという機運が高まっていました。「ニューマトロン」という計画で、東大原子核研究所(核研)所長の坂井光夫先生や大阪大学の杉本健三先生などが熱心に推進しておられました。シンポジウムの後、原子核物理学の諸先生方と一緒に晩御飯を食べながら、国内のニューマトロン計画と日米協力によるバークレイとの共同実験を始めよう、と、熱く議論していたことを思い出します。 −当時の重イオンによる実験ではどのような研究が行われていたのですか? 当時は、まさに、高エネルギー重イオン実験の夜明けの時期でした。カルシウムや最終的には鉛等の重イオンビームを鉛などの原子核に照射して、入射核の核破砕による新しい原子核の生成が始まり、また、正面衝突による高密度原子核物質の研究が始まった頃です。 −重イオン加速器の替わりに大強度の陽子加速器を建設しよう、というのはいつごろからですか? ニューマトロン計画をさらに野心的なものに変えて、重イオンだけでなく、強度の強い陽子ビームも加速できる、ハイブリッド型の加速器を作ろう、という機運が出てきました。この計画を検討する委員会をとりまとめる役を私が仰せつかることになり、まとまったのが1986年の「大ハドロン計画」(図1)です。当時としてはかなりの大計画でした。そこで、まず、その後核研所長になられた山崎敏光先生のリーダーシップの下で、大強度陽子ビームの加速器前段部のリニアックを作る計画が着手されました。 核研と高エネ研の統合 −この時、高エネルギー物理学研究所に隣接した敷地にリニアックを建設することが提案されたわけですね。 名称を「大型ハドロン計画(JHP)」として、高エネ研の敷地の南側でまずリニアックを建設(図2)することが提案されました。これにより、パルス中性子、パルスミュオン、不安定原子核ビームの研究を進めようと考えたのです。この計画ではさらに、当時高エネ研の主力加速器として原子核物理などの共同利用実験に用いられていた12GeV陽子加速器の改造も視野に入れられていました。 −しかし、計画が承認されなかった? 苦しい時代でした。当時は、大型の研究計画がなかなか承認されない情勢にありました。そんな中で、核研と高エネ研が統合してこの計画を推進すべきではないかというコミュニティの議論がありました。この議論に関わった方々のさまざまな思いは一言には尽くせません。私はこの計画を率いることを決め、核研と高エネ研が統合して現在のKEKが発足した1997年に、3GeVと50GeVの加速器を擁する「大型ハドロン計画(JHF)」(図3)を概算要求することにしました。 さらに日本原子力研究所との統合計画へ −日本原子力研究所との統合計画が決まった経緯は? 1997年の概算要求の際に計画を審議する国際レビュー委員会を立ち上げて、T.D.Lee氏など国内外の有力な人から強いサポートが得られたのですが、その年は残念ながら計画は承認されませんでした。翌年、計画の一部が認められて、リニアック上流部分の機器の製作に取りかかることができたのですが、9月になって突然、文部省(当時)から「科学技術庁(当時)と共同でプロジェクトを進めることはできないだろうか」という、関係者にとって驚きの相談が持ちかけられたのです。 当時、科学技術庁の管轄にあった日本原子力研究所(原研)※では「中性子科学研究計画」という大強度陽子加速器の計画構想が練られていました。KEKの計画と目的面で重なり合っている部分も多かったのです。 ※日本原子力研究所は、2005年10月、核燃料サイクル開発機構と統合し、現在の日本原子力研究開発機構となる。そこで、KEKと原研の当事者同士が話し合って、共同計画の検討を始めることになりました(図4)。 施設をKEKと原研のどちらの敷地に作るかなど、議論すべき内容は多岐に渡り、必ずしも全てがスムーズに進んだわけではありません。ですが、共同計画がまとまらなければお互いの計画が共倒れになるかもしれないという危機感と緊張感を持っていましたので、時機を逸しまいと議論を重ねました。両研究機関の間で計画統合の合意が成立したのは1999年3月でした。 −この統合計画が「大強度陽子加速器(J-PARC)計画」(図5)になっていくわけですね。 文部省も科学技術庁もこの計画を高く受け止めてくれて、秋には評価委員会が設置されました。これは「大型プロジェクトの承認は国がしかるべき形でレビューをした後になされるべき」という枠組みが作られてから初めての委員会でもあります。この委員会による詳しいレビューや、行政担当者への度重なる説明などを経て、計画が正式に認められたのは、2000年の暮れです。それまでは、ある時は海外出張先から急遽帰国して説明に出向いたり、何度も薄氷を踏む思いをしました。計画承認の内示があった時には心の底からほっとして、みんなでカラオケに行って祝ったことを憶えています。 −J-PARCは2001年の建設開始から8年目に入りました。今年はいよいよ加速器が本格運転に入りますね。 建設が終わったら、この研究施設を全世界に開放したいですね。まさに世界のJ-PARC施設です。国際化の問題、維持費の確保、運営組織の確立、居室や宿舎の整備、等々、取り組むべき課題は山積していますが、これからも日夜努力を続けていくつもりです。 −どうもありがとうございました。
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