KEK 現在につながる貴社とKEKとの仕事の原点、関わりについてお聞かせください。
天野社長 昭和62年頃、KEKでは放射光の、共同利用が進められ、トリスタン実験*1 が始まった頃で、海外も含め多くの研究者が訪れ、職員の方々も研究で忙しくなり、また、様々な業者の出入りも多くなっていました。当時は、放射線管理計測や、区域内に入る人の管理方法が定型化されておらず、KEKの職員の増員ができない中で「安全を確保しながら合理的に管理することを外注で出来ないか」という意見を現場の先生方からいただきました。
加速器は基本的には電源を切れば放射線は発生しませんが、立ち入り禁止範囲など細かい対応が多く、そこを区分し、パターン化することを検討しました。最初は先生方にご迷惑をかけながらでしたが、1年半かけて基本設計・業務設計を行い、KEKとの取引が始まりました。
KEK 多くの方が利用する大型加速器施設ということで、対応に特別な課題はありましたか。
天野社長 「施設を有する側の責任」と、「雇用主としての責任」とが、重層的になった場合、責任の所在が全く不明確なので、その点は十分議論しました。その結果、KEKの施設に出入りする利用者の教育を行うこととなりました。
KEK 貴社はKEKと同じ2021年が創設50周年と伺っています。当時は研究や発電用の原子炉の運転や計画が進んでおり、また、放射性同位元素の利用も急増し始めている頃だったとも思いますが、貴社の設立や業務についてお聞かせください
天野社長 設立者自身が日本原子力研究所の初期メンバーで、事務方、エンジニア、電力会社から来られた方、そういった意を同じくする者が集まり当社を設立しました。 同じ頃、日本アイソトープ協会が改称され、科学技術の進歩や産業経済の振興のため放射性物質を供給して研究の場で活用してもらおうと、各大学に出向いて「放射性物質を実験に使いませんか」と勧めたところ、「その有効性はわかるが管理も一緒にしてほしい」という要望がありました。 当初、現場における放射線管理、安全評価、特殊機械などの迅速な提供の必要性を痛感し、放射線管理計測を代行する会社があればより広く放射線を利用した研究が進むであろうと、放射線管理区域での専門的技術サービスをコンセプトに、昭和46年、東京ニュークリア・サービス株式会社を設立しました。東京からスタートして、同時に日本の原子力のメッカと言われていた東海村でも営業所を開設しました。東京と東海村が発祥の地となります。