UCNグループが開発した大型ヘリウム冷凍機が完成し、先日KEKに搬入されました。UCNグループでは極低エネルギーの中性子、「超冷中性子(UCN)」を用いて、中性子電気双極子モーメント(中性子EDM: Electric Dipole Moment)の探索実験を行なっています。
中性子は電気的に中性な粒子ですが、非常に小さなスケールで見れば内部に電荷の偏りがあるかもしれません。この電荷の偏りがあれば「電気双極子モーメント(EDM)」が生じます。KEK UCNグループではTUCAN国際共同実験(注1)に参加しており、中性子EDMを測定することで時間反転対称性の破れの研究を行っています。
中性子内部の電荷の分布は、例え時間をさかのぼる(反転している)場合でも反転しません(EDMは方向を変えません)。ところが、中性子の持つもう一つの物理量である「スピン」という自転しているかのような性質は、時間が反転するとその方向を変えます。このように時間が反転することでEDMとスピンの向きに違いが出てしまうため、もしEDMが存在した場合、時間反転対称性が破れます(図2)。時間反転対称性が破れた時、CP対称性(物質・反物質対称性)も同時に破れます。つまり、時間反転対称性の破れが見つかると、誕生直後の宇宙に物質と同程度存在していたはずの反物質(物質と寿命や質量は同じものの、電気的な性質は反対の物質)がなぜ現在の宇宙では観測されないのかという謎を解明する大きな手がかりとなります。CP対称性の破れの研究はKEKのBelle/Belle II実験やT2K実験などでも盛んに行われていますが、TUCAN国際共同実験で時間反転対称性の破れが見つかれば、Belle/Belle II実験やT2K実験とは別の新たな切り口から、消えた反物質の謎を理解できると期待されています。
現在までにEDMは見つかっておらず、これまでのところ時間反転対称性は保たれているようです。しかし、UCNを大量発生させ実験の感度をあげて中性子EDMを探索することで、時間反転対称性の破れの存在を探ることができます。TUCAN国際共同実験では、この中性子EDMを10-27 ecm(ecmは電気双極子モーメントの大きさを表す単位)の測定感度で観測することを目指しています。
温度は物質を構成している分子や原子の熱運動の大きさで決まります。実験に用いるUCNは極冷、つまり非常に小さな運動エネルギーしか持たないため、物質容器内に閉じ込められるというユニークな特徴を持っています。UCNは以下のようにして生成します。まず初めに加速された陽子を金属でできた標的にぶつけて原子核を割り(核破砕反応)、中性子を取り出します。この時の中性子はメガeV級の運動エネルギーを持っています。速度にすると光の速さの数十分の1程度(107 m/s)です。これを10-7 eVまで冷却するとUCNになります。冷却は段階的に行います。初めに室温の重水(水分子の組成に質量数の大きい同位体を含み、通常の水より比重の大きい水)を使って300 K(室温程度、1 K=-272.15 ℃)まで冷却します。次に、5 Kに冷却した液体の重水素(陽子1個と中性子1個で原子核が構成される、水素の同位体の1つ)を用いて中性子を20 K程度まで冷却します。その中性子をさらに1 K(-272 ℃)の液体ヘリウムの中に入れることで10-7 eVまで冷却します。この運動エネルギーを速度に直すと約5 m/sと人が走る速さと同程度です。なお、最後の冷却過程で中性子がUCNに変換するので、1 Kの液体ヘリウムをUCNコンバーター(変換するもの)と呼んでいます。TUCAN国際共同実験では、中性子からUCNを生成する図3の装置をカナダのTRIUMF研究所内に建設しています。2017年11月にTRIUMF研究所では初めてとなるUCN生成に成功し、現在TUCAN国際共同実験グループは、UCN生成実験と並行してUCN源のアップグレード計画を進めています。中でもKEKでは、UCNを効率的に生成する際に重要となるヘリウム冷凍機を開発しています。UCN生成時に、UCNコンバーターは陽子ビームと金属標的の反応によって生じる放射線(中性子もその放射線の一部)による熱を受けるので、ヘリウム冷凍機でその熱を取り去り、UCNコンバーターを1 Kまで冷却し続ける必要があるのです。
今回開発したヘリウム冷凍の仕組みは次のようになっています。UCNコンバーターは銅で出来た熱交換器を介して別の液体ヘリウム3(注2)に接しています。ヘリウム3は沸点が3.2 K(大気圧下)と液体の中でも一番低く、1 Kという極低温にまで冷却するためには不可欠です。熱交換器によりUCNコンバーターの熱が液体ヘリウム3に伝わると液体ヘリウム3は蒸発し、熱を与えたUCNコンバーターは1 Kまで冷却されます。
この時、ヘリウム3を液体になるまで冷却するために、ヘリウム4を用いてここでも段階的に冷却しています。ヘリウム冷凍機内には2つの槽があります。初め気体の状態であるヘリウム3は、大気圧に保たれ4.2 Kの液体ヘリウム4に満たされた「4Kヘリウム槽」と、750 Paに減圧し1.6 Kの液体ヘリウム4に満たされた「1Kポット」と呼ばれる槽の2槽の内部に設置されたチューブを通って冷却されて、凝縮した後に液体となります。この時の液体ヘリウム3の温度は1.6 Kです。液体ヘリウム3は次に、小さな穴を通って減圧した空間に放出されます。この時、自由膨張(ジュール・トムソン膨張と言います)によりさらに温度が下がり、液体ヘリウム3は1K以下となります(注3)。UCNコンバーターから熱を受け取り蒸発したヘリウム3は回収され、またヘリウム冷凍機内に戻るというサイクルを繰り返します。4Kヘリウム槽、1Kポット、熱交換器などは真空中に置かれ、外部からの熱を受けないようになっています。
今後は、年内に冷凍機の試験をヘリウム4で代用してKEKで実施し、冷凍機全体が冷えるのか、設計通り段階的に冷却できているか、外部からどの程度熱の流入があるかなどを確認します。その後、2021年にTRIUMF研究所へ輸送する予定です。そこでのヘリウム3を用いた最終冷却試験の後、2022年にUCNを生成する計画です。
KEK UCNグループ代表の川崎真介 助教は「設計段階から3年かかりましたが、遂に形になってKEKにやってきたので感慨深いものがあります。設計通り冷却できるか心配はつきませんが、設計通りの冷却能力を確認して、早くTRIUMF研究所でUCNを生成したいです。」とコメントした上で、「冷凍機がKEKに搬入され、1つのマイルストーンが達成できました。今後も中性子EDM発見に向けて頑張ります。」とTUCAN国際共同実験での測定開始に向け意気込んでいました。
用語解説
注1. TUCAN国際共同実験
日本とカナダの大学・研究機関から約40名が参加する実験プロジェクト。カナダのTRIUMF研究所でUCNを大量に生成し、中性子EDMを10-27 ecmの感度で観測することで時間対称性の破れを探索しています。
注2. ヘリウム3
ヘリウムの同位体の一つ。ヘリウムの大部分(99.9999%)は陽子2個と中性子2個で構成されるヘリウム4ですが、ごくわずかに存在するヘリウム3は陽子2個と中性子1個で構成されています。ヘリウム4は大気圧(約101,300 Pa)のとき4.2 K(約-269 ℃)で沸騰しますが、ヘリウム3は同じ圧力下でさらに低温の3.2 K(約-270 ℃)で沸騰します。
注3. 液体はかかる圧力を下げると沸点が下がっていきます。例として、水の沸点は通常100℃ですが、気圧の低い富士山の山頂では87℃で水は沸騰します。