ハイライト

追悼 西川哲治先生

2011年2月25日

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図1

高エネルギー物理学研究所創設10周年記念祝賀会で挨拶される西川先生(1981年11月)。


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図2

トリスタン計画で使われた西川先生の発明による「交番周期型加速空洞Alternating Periodic Structure Cavity)」


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図3

陽子シンクロトロンのビームライン、カウンターホールの配置図。5億電子ボルトまで陽子を加速する「ブースター」と、120億電子ボルトまで加速する「主リング」から構成されていた。1976年から2005年12月末まで、30年にわたって稼働し高エネルギー実験が行われた。


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図4

KEKを訪れたH.ショッパーCERN所長を陽子シンクロトロン加速器に案内する西川先生(1983年2月)。


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図5

ミッテラン仏国大統領(当時)にフォトンファクトリーの説明を行う西川先生(1982年4月)。

高エネルギー物理学研究所長や東京理科大学長などを歴任され、広く学術研究の発展に尽くされた西川哲治先生が、2010年12月15日に亡くなられました。享年84歳(図1)。

西川先生は、1954年に東京大学大学院(霜田研究室)を修了された後、同理学部助手を経て、1956年に東京大学原子核研究所助教授に就任、電子シンクロトロンの建設計画に加わられました。同加速器完成後1961年には教授として東京大学理学部にもどられ、ご自身の研究室を開設されました。そこでは上記シンクロトロンによる高エネルギー物理実験や加速器の開発研究に加え、素粒子研究の拠点となる素粒子研究所創設のために力を注がれました。その結果本計画が、1971年、高エネルギー物理学研究所という形で筑波研究学園都市に実現すると、そこに移られ、当初は加速器研究系研究主幹として、さらに1977年からは12年間にわたり所長として研究所の運営にあたられ、その発展に大きな力を発揮されました。1989年に同研究所を退官されますが、1990年には東京理科大学の学長に就任、その後の11年間は活動の場を大学教育の分野に移されました。一方先生は、学会活動などにも積極的に取り組まれ、1970年には物理学会長、また1985年からの6年間は学術会議会員を務めておられます。

西川先生のご業績は多岐にわたりますが、1970年には、交番周期型(図2)と呼ばれる新しい加速構造の発明を含む陽子線形加速器の研究に対して仁科記念賞を受けられました。その後も多くの成果を積み重ねられ、数々の賞に輝かれました。主なものとしては、藤原賞(1988年)、紫綬褒章(1988年)、文化功労者(1989年)、瑞宝重光章(2003年)などがあげられます。

西川先生は、高エネルギー物理学研究所において、陽子シンクロトロン、放射光科学研究施設(フォトンファクトリー)、トリスタン電子・陽電子ビーム衝突加速器という大型の実験施設計画を次々と立案、それらの建設を主導されました。

まず陽子シンクロトロン計画では、フェルミ研究所の計画と並んで、入射リ二アックと主シンクロトロンの間にブースター(図3)と呼ばれる中間のシンクロトロンを挿入するカスケード方式を世界に先駆けて導入されました。

これには内外に、日本最初の大型加速器計画として、よりオーソドックスな方式を選ぶべきではないかという意見もありましたが、先生は計画を見事に成功へと導かれました。更に後にはこの中間のシンクロトロンを、高エネルギー加速器を物質科学や医学の研究に応用するさきがけとなるブースター利用施設の創設に結び付けられ、加速器科学の新しい展開に道を開かれました。現在高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が推進するJ-PARCはまさにその延長線上にあるといってよいでしょう。

続くフォトンファクトリー計画では、高良和武先生の協力のもと、第2世代型の放射光源としては当時世界最高性能の施設を建設され、今日の放射光研究隆盛への道筋をつけられました(図5)。

西川先生が、最も力を注がれた計画が、日本最初のビーム衝突型加速器でありまた国際的な共同利用実験施設となった、トリスタンです(図6、7、8)。


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図6

トリスタン加速器システム。電子と陽電子は先ず電子・陽電子リニアックで25億電子ボルトに加速される。入射 蓄積リングで十分な電流値まで蓄積され、80億電子ボルトに加速される。その後衝突リングに入射され、300億電子ボルトまで加速され、4ヵ所の実験室で衝突する。 (PSは120億電子ボルト陽子シンクロトロンであり、PFはフォトンファクトリーである。)


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図7

トリスタン起工式において(左:西川先生、中央:南部陽一郎博士)(1981年11月)、

image図8

トリスタン起工式に訪れたパノフスキーSLAC所長(当時)とトリスタン蓄積リングの中心点に立つ西川先生(1981年11月)。


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図9

トリスタン用の超伝導加速空洞の組み立て

この計画の主要目的が当時未発見のトップクォークの探索でしたので、トリスタンでは少なくとも300億電子ボルトの電子と陽電子をリングに貯蔵、衝突させる必要がありました。しかし当時の技術の範囲でこのリングを設計しますと必要な平均直径は2~3kmになります。一方研究所の敷地に収容できる大きさは1kmが限界でした。そこで西川先生が決断されたのが、従来の装置より遥かに高い加速効率が実現できる超伝導高周波加速空洞の開発(図9)でした。

当時超伝導空洞は技術的に未完で、欧米にはこれを無謀な計画と評する専門家も少なくありませんでした。しかしこの開発計画は見事に成功し、トリスタンは、トップクォークは発見できませんでしたが、設計値を超えるエネルギーまでビームを加速することができ、多くの研究成果を残すことが出来ました。さらにトリスタンの加速器システムをベースに建設されたBファクトリーは、CP対称性の破れを検証し、2008年の小林・益川両氏のノーベル賞受賞につながりました。

西川先生は、加速器を広く様々な分野に応用する研究の普及にも大変熱心に取り組まれました。その一つが、国内の研究者が、装置の種類や規模の大小にかかわらず成果を持ち寄って発表を行う「加速器科学研究発表会」の創設です。それは1975年の第1回以来隔年に開催され、2004年以降は加速器学会年会へと引き継がれています。

最後に、加速器の技術開発には民間企業の協力が必要不可欠です。先生は、これら開発協力で得られた技術を民間に移転することにも尽力され、結果として関係企業の発展に大きく貢献されました。

(今回のハイライト記事では、昨年の12月に逝去された元高エネルギー物理学研究所長の西川哲治氏の業績の紹介と回想を交え、KEKの顧問である木村嘉孝名誉教授による追悼文を掲載致しました。)


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