物質の究極の構造を調べる
「もの」はなにからできているのか。これは人類が太古の昔から追究してきた根源的な疑問です。19世紀までに化学者は、化学反応の研究をとおして「元素」という概念に到達し、元素は「原子」という形で存在することを示しました。20世紀は物質の研究がさらに大きく進んだ時代ですが、それを可能にしたのが加速器です。
100年ほど前、ベクレルによって放射性元素が発見されました。1896年のことです。放射性元素はアルファ線などを出しながら別の元素に変わっていきます。それまで元素は不変不滅のものと信じられていましたので、この発見は驚くべきものでした。
おなじ頃、トムソンによって「電子」の存在が確かめられました。ラザフォードは、放射性元素から飛び出してくるアルファ線を標的物質にぶつける実験から、原子は「原子核」と電子から成り立っていることと、原子核という固い芯があることを発見しました。ラザフォードらの実験は、小さな粒子同士を高速で衝突させると物質の究極の構造を知ることができるということを示したもので、科学の歴史に残るたいへん大きな出来事でした。
いろいろな加速器が発達した20世紀半ば
はじめの頃の加速器は粒子の加速に高電圧を利用するものでしたが、1930年代になると、高周波の電場を利用するものが考案され、線形加速器(リニアック)や磁場を使った円型の加速器サイクロトロンが生まれました。
1944年に位相安定性の原理が発見され、この原理を加速に用いるシンクロトロンが誕生しました。さらに1952年には四重極磁石などを用いた強収束の原理が発見され、粒子を加速するエネルギーはそれまでの1万倍から10万倍という、飛躍的な進歩を遂げました。今でも位相安定性と強収束はシンクロトロン加速器の重要な基本原理となっています。
当時、シンクロトロンで世界をリードしていたのは、アメリカのブルックヘブン国立研究所(BNL)にあるコスモトロン(30億電子ボルト)やAGS(300億電子ボルト)、スイスジュネーブ郊外の欧州原子核研究所(CERN)のCPS(280億電子ボルト)などでした(写真1)。カリフォルニア大学バークレー校のベバトロン(60億電子ボルト)で反陽子が発見されたのもこの頃です(写真2)。フェルミ国立加速器研究所(Fermilab)の陽子シンクロトロンは1976年に5千億電子ボルトの加速に成功し、世界の頂点に立ちます。
固定標的から衝突型へ
一方で、加速された粒子ビームを使って実験をする方法にも革命的な進歩がありました。当初、加速器の実験では、粒子ビームを固定された標的にあてて、そこからどのような粒子が出てくるかを観測していました。この方式では、粒子ビームが持っているエネルギーのごく一部が反応に用いられるだけですが、2つの粒子ビームを正面からぶつけてやればビームが持つエネルギーが効率良く反応に使われます。
アメリカのスタンフォード線形加速器センター(SLAC)に建設された電子・陽電子衝突型加速器(SPEAR)では1974年、新粒子J/ψの発見により、チャームクォークの存在が確立しました。
1976年にはルビアが陽子加速器を使って陽子と反陽子を反対方向に加速し、衝突させる実験を提案します。CERN研究所では4000億電子ボルトの陽子加速器をそのまま転用し、フェルミ研究所は超伝導磁石を用いたさらに高いエネルギーの加速器テバトロンを建設する計画に着手します。ルビアとファンデルメーアが率いるグループは、CERN研究所で1981年に世界で初めての陽子と反陽子の衝突実験に成功し、1983年には弱い相互作用をつかさどるWとZ中間子を発見します。一方のテバトロンでは、1987年に実験が始まり、1995年にトップクォークを発見しました。
加速器のエネルギーが年とともにどのように増加してきたかを示すグラフはリビングストン図と呼ばれています。20世紀の後半、様々な種類の加速器が開発され、ビームのエネルギーは10年でほぼ10倍の勢いで向上してきました(図1)。
日本の加速器科学
一方、日本では理化学研究所の仁科芳雄博士らが1937年から陽子サイクロトロンを建設しますが、第二次世界大戦の敗戦とともに、サイクロトロンが破壊され、加速器の研究が中断します。1956年、田無市(現在の西東京市)の東京大学原子核研究所で7億電子ボルトの電子シンクロトロンの建設が始まり、1961年に完成します(写真3、4)。
当時の建設グループは20名ほどでしたが、ほとんどのメンバーにとって本格的な加速器の建設は初めての経験であり、外国の文献などを読み漁っては激しい議論を闘わせる日々だったとのことです。この時のメンバーの多くは、その後のKEKの加速器計画でも主導的な役割を果たすことになります。
原子核研究所の電子シンクロトロンは1966年には13億電子ボルトに到達します。その後、1971年にKEKの建設が始まり、1976年、120億電子ボルトの陽子シンクロトロンが完成します。
1973年には西川哲治教授らが電子・陽電子衝突型加速器のトリスタン計画を提案し、1986年、当時の世界最高の衝突エネルギーを達成しました。
1994年にはCP対称性の破れの謎の解明を目指してKEKB加速器の建設が始まり、1999年から実験を続けています。KEKBは衝突型加速器としては前人未踏の性能を達成し、注目すべき研究成果をあげています。
KEKでは新しい研究のフロンティアを切り拓くため、これからも先端技術の開発に国際的に取り組んでいきます。今後の進展にご期待下さい。
|
|
[写真1] CERN |
ジュネーブ郊外のCERN研究所の建設予定地を視察するM.A.Picotら。1953年。 |
[拡大写真(88KB)] |
|
|
[写真2] LBNL研究所 |
セグレとチェンバレンは1955年、カリフォルニア大学バークレー校の加速器ベバトロンを使った実験で反陽子を発見し、1959年のノーベル物理学賞を受賞した。写真はセグレ。LBNL研究所にて。 |
[拡大写真(27KB)] |
|
|
[写真3] |
東京大学原子核研究所に建設された電子シンクロトロンで7億電子ボルトの加速成功を喜ぶスタッフ。1961年。 |
[拡大写真(27KB)] |
|
|
[写真4] |
日本で初めて人工的に作られ、観測されたパイ中間子とその崩壊の様子。原子核研究所の電子シンクロトロンで。1962年。 |
[拡大写真(12KB)] |
|
|
[写真5] |
東京大学原子核研究所の13億電子ボルト電子シンクロトロン。1956-1999。 |
[拡大写真(45KB)] |
|
|
[写真6] |
高エネルギー物理学研究所(田無分室)が作った日本初の水素泡箱(直径75cm)による初めてのビーム実験。原子核研究所の電子シンクロトロンにて。1972年。 |
[拡大写真(41KB)] |
|
|
[写真7] |
1976年3月、KEKの陽子シンクロトロンが80億電子ボルトの加速に成功した時の記念写真。(KEK「10年の歩み」より) |
[拡大写真(60KB)] |
|
|
[図1] |
加速器のエネルギーの変遷(リビングストン図)。 |
[拡大図(21KB)] |
|
|