高エネルギー加速器研究機構(KEK)の前身である高エネルギー物理学研究所は、1971年4月、旧文部省所轄の大学共同利用機関の第1号として、また、当時新しく建設が始まったばかりの筑波研究学園都市計画のパイオニア的研究所の一つとして創設されました。当時の学園都市は建設の途上で、朝、出勤の時に通った道が、夜の帰宅時には通れなくなっているということがよくあり、雨の季節にはむき出しの地面がぬかるんで、長靴と懐中電灯が文字通りの必需品でした(写真1)。1972年1月になってようやく一部完成した数棟の公務員宿舎の住民は、KEKの職員とその家族がかなりの割合を占めていました。月の出ていない夜に窓の外を眺めると公務員宿舎の明り以外には、明りが殆ど見えない、星空のみ、という情況でした。
そんな中で、KEKの大型陽子シンクロトロン加速器とその関連の研究設備や建屋等の建設が営々と進められました(写真2)。1976年3月には、所期の計画通り、陽子を80億電子ボルト(8GeV)まで加速することに成功し、さらに同年12月には当初の目標を上廻る11.8GeV迄の加速に見事成功、ここに12GeV陽子シンクロトロンの完成を見たのでした。続く1977年5月には、全国の高エネルギー研究者の長年の念願であった、加速器による共同利用実験が開始されました。
朝永委員長と「素研準備室」
高エネルギー物理学研究所の創設の計画は、1962年5月に日本学術会議が“大型陽子シンクロトロンの建設”を含む『原子核研究将来計画の実施について』を政府に勧告した時点に遡ります。1964年には朝永振一郎博士(ともながしんいちろう・1965年ノーベル物理学賞)を委員長とする素粒子研究所準備調査委員会が設立され、KEKのもう一つの前身である東京大学原子核研究所に、素粒子研究所準備室(通称「素研準備室」)が開室しました。1977年に陽子シンクロトロンによる共同利用実験が開始されるまで、実に15年の歳月を費やしたことになります。“素粒子の謎”に迫る高エネルギー実験を何とか我が日本の国内で行いたいという研究者達の一丸となっての努力が、幾多の内外の圧力や生みの苦しみを乗り越えて、ようやく実を結んだ瞬間でした。
KEKの敷地には以前、ゴルフ場があったそうです。建設当時、敷地の中に唯一建っていたのがゴルフ場のクラブハウスで、研究者はここで寝泊まりしながら、素粒子の泡箱写真のデータ解析や、様々な委員会の会合を開催していました(写真3)。この建物は、KEKの他の施設が充実する1981年頃まで利用されました。
建設当初の高エネルギー物理学研究所の加速器は、規模的には当時の米国やヨーロッパの大型加速器と比較すると、見劣りのする施設でしたが、12GeV陽子シンクロトロンの建設の成功と、それによる共同利用実験の着実な進展は、加速器を利用するその他の分野にも直ちに波及し、ブースター加速器で生成される中性子などを使った物性科学を始め、医学利用なども含めた幅広い学際的な研究を促すことになりました。
1977年4月には、放射光実験施設の計画もスタートし、今日のKEKの広範な“加速器科学”の研究の発展の素地ができたのでした。
高橋嘉右氏(たかはしかすけ・KEK名誉教授)は「勿論、職員はもとより、所内外の研究者の協力・努力と苦労も大変でありました。そして、政府当局や産業界その他地元周辺の数知れぬ方々の積極的な御支援も大変なものでありました。これらは、今こうして振り返って見ると、本当に懐かしい思い出となっております。」と、当時の様子を語っています。
高エネルギー加速器を利用する研究拠点ができたことで、研究者の社会が日本にも形成され、国際的な研究交流の枠組みも整備されていきました。その時代を象徴する一つの大きなイベントが、1979年11月に締結された高エネルギー物理学における『日米科学技術協力事業』の実施取極めでした(写真4)。第二次世界大戦後、欧米に30年以上の遅れをとっていた我が国のこの分野の研究も、いよいよ世界に伍して肩を並べ、研究の成果を競っていくことになったのです。
世界の頂点への挑戦
高エネルギー物理学研究所の発足から10年目の1981年4月には、トリスタン電子・陽電子衝突型加速器の計画が認められ、建設が開始されました。「世界に追いつき、追い越せ」の意気込みの下、1986年11月に電子と陽電子をそれぞれ255億電子ボルト(25.5GeV)まで加速し、正面衝突させるという、当時世界最高のエネルギーによる電子・陽電子衝突による“クォーク対生成反応”を観測し、一躍、世界の素粒子研究の最前線に躍り出たのでした(写真6)。同時に、世界に先がけて進めて来た超伝導加速空洞の利用により、1988年11月には目標の30GeVに続いて翌年には32GeV迄の加速に成功しました。これらの研究で培った実績と経験と技術的自信とが、我が国の産業界のバックアップも得ながら、今日のKEKB加速器の建設の成功と、世界最高のルミノシティー実現の達成という世界的偉業を成し遂げることができたといえるでしょう(写真7)。それに呼応して、Belle国際共同実験グループはB中間子の「CP対称性の破れ」が小林・益川理論の予言通りであることを実証したのです。
ニュートリノ物理の夜明け
一方、トリスタンと平行して、地道な、しかし着実な研究を続けて来た12GeV陽子シンクロトロンでは1999年につくば市から250Km離れた岐阜県神岡町の世界的なニュートリノ巨大観測施設である東大・宇宙線研のスーパー・カミオカンデに向けたニュートリノ・ビームの打込みに成功し、スーパー・カミオカンデはこのK2K(KEK TO KAMIOKA)実験による解析から、謎の素粒子と呼ばれているニュートリノの本質に迫る有限質量の根拠を示すという快挙を成し遂げています。こうして、12GeV陽子シンクロトロンも再び世界の脚光を浴びることになりました。
30有余年前、星空の下、懐中電灯を片手に長靴を履きながら、建設に邁進した筑波研究学園都市も、街並みはすっかり整備されました。そして、学園都市とともに大きく発展してきた「KEK」もまた、世界に知られる研究機構となりました。“30にして立つ” KEKと国際都市“つくば”の発展にご期待下さい。
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