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last update:06/02/10  

   image 朝永博士とKEK    2006.1.5
 
        〜 生誕100周年によせて 〜
 
 
  明けましておめでとうございます。今年は物理学者朝永振一郎博士(1906〜1979)の生誕100周年になります。朝永博士は日本の素粒子原子核物理学の発展に様々な形で貢献してこられましたが、KEKの誕生にも深く関わっておられます。博士とKEKとの関わりについて、その一端をご紹介しましょう。

朝永博士と共同利用研究所

朝永振一郎博士は、1965年、量子電磁力学の建設の業績により、ファインマン (Richard P. Feynman) とジュリアン・シュウィンガー (Julian Seymour Schwinger) とともにノーベル物理学賞を受賞しました。日本では湯川秀樹博士に続いて2番目の受賞です。

量子電磁力学は、「場の量子論」と呼ばれる素粒子物理学の基本的な理論的武器のひとつで、1920年代の終わり頃にハイゼンベルク、パウリと言った著名な物理学者によって提唱されたものです。朝永博士らはこの場の量子論を、電子と光子(光を量子化してできる粒子)の相互作用に応用し、相対論的に明確に共変(つまりどんな慣性系でも成り立つことがはっきりした)な理論にしあげました。また、この理論の中で編み出された「くりこみ理論」と呼ばれる方法を用いると、さまざまな計算の際に現れる無限大をうまく処理してこれを避け、実際に実験と比較できる数値を高い精度で計算できるようになりました。この繰り込みの方法は、その後に確固たる位置をしめる「ゲージ場の理論」で中心的な役割をつとめることになります。

このような業績を聞くと、我々は朝永博士がいつも書斎にこもって研究をしていたと思いがちです。しかし、朝永博士の残したものは自分自身の研究成果だけではありません。東京教育大学の学長として大学の運営にあたったことも知られていますが、「共同利用研究所」の建設にもご尽力されました。

原子核研究所の設立

昭和30年頃、日本はようやく第2次大戦のあとから這い上がり科学の研究も再開できる気運ができてきました。戦前から戦中に建設された理研や京大などにあった原子核物理学の実験装置サイクロトロンは戦後すぐにアメリカ軍の手で海に捨てられてしまいましたが、この頃やっとこうした原子核の実験が再開されることになったのです。しかし、サイクロトロンは安価なものではなく、建設費用など一大学の研究室で運営してゆけるものではなくなっていました。ここで全国の研究者が共同で用いる実験装置(加速器)をつくろうという方向に話が進みました。ところで KEK の正式な名称は「大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構」といいます。この「大学共同利用機関」と言う言葉は上に紹介したような経緯によっていることがわかっていただけると思います。

このようにして共同利用実験施設の計画ができ、実際に東京の田無町(現在の西東京市)に原子核研究所を建設することに努力した関係者の一人が朝永博士でした。「原子核」と名付けたものができると「危険なもの」とのイメージができがちで、当時の田無の住民も同じ思いでした。朝永博士は、この計画が純粋な科学の研究の施設であり、原爆のようなものとは無縁であることを住民に説いてまわりました。

このような多大な努力の結果、田無の原子核研究所が開設され、原子核物理の実験に用いるサイクロトロンや、素粒子物理学に用いる1.3GeVの電子シンクロトロンが建設され、実験が開始されました。

素粒子研究準備調査委員会からKEKへ

しかし世界の研究の動向をみると、さらに大規模な加速器施設が必要であることもわかってきました。1962年、日本学術会議は大型加速器の建設を含む「原子核研究将来計画の実施について」という勧告を政府に提出しました。1964年から巨大加速器研究のための経費が計上されるようになり、学術会議の原子核特別委員会に素粒子研究準備調査委員会が発足した際に委員長を努められたのが朝永博士でした。この委員会は後に原子核研究所の中に設置された「素粒子研究所準備室」となり、さらに大型の施設の計画が練られることになります。

日本学術会議が「共同研究所のあり方について」という勧告をまとめたのは1967年のことです。この勧告はそれまで大学の附置として位置づけられていた共同利用機関を独立させることを念頭に置いたもので、朝永博士は学術会議と文部省顧問としての立場に配慮しつつ、開かれた共同利用機関の設立に尽力されました。

その後、学術審議会の議論などの様々な紆余曲折を乗り越えつつ、関係者の努力が結実してできたのが、現在のつくば市の高エネルギー物理学研究所です。朝永博士は1971年に高エネルギー物理学研究所が創設された後も「評議員」としてその運営に加わり(図2)、この研究所の発展に貢献されました。

高エネルギー物理学研究所と原子核研究所は26年後の1997年4月に合併し、現在の高エネルギー加速器研究機構となりました。


※もっと詳しい情報をお知りになりたい方へ

→筑波大学散策マップ朝永記念室のwebページ
  http://www.tsukuba.ac.jp/map/walking/spot.php?id=d881
→筑波大学朝永氏の紹介ページ
  http://www.tsukuba.ac.jp/gaiyo/nobel/tomonaga.html
→筑波大学朝永振一郎博士生誕100年記念事業のページ
 http://tomonaga.tsukuba.ac.jp/pub/
→1965年ノーベル物理学賞のwebページ(英語)
  http://nobelprize.org/physics/laureates/1965/index.html

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[図1]
1976年(昭和51年)高エネルギー物理学研究所陽子加速器完成記念式にて。(左から二人目)
拡大図(49KB)
 
 
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[図2]
1971年(昭和46年)11月18日第1回評議員の会議で。朝永博士は画面中央の立っている人の右隣。
拡大図(40KB)
 
 
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[図3]
1973年(昭和48年)6月26日第4回評議員会議の後、実験ホールを視察する朝永博士ら評議員の一行。
拡大図(45KB)
 
 
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[図4]
陽子加速器トンネル建設現場の視察。
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[図5]
陽子加速器トンネル建設現場の視察。
拡大図(45KB)
 
 
 
 
 

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