ニュース

世界の理論研究者が集い、ミューオン g-2の統一的な理論予想値をまとめたホワイトペーパーが公開されました

ミューオン g-2の標準理論計算の高精度化を目指し、世界の82の大学・研究機関から170人以上の専門家が集い研究を進めてきたミューオンg-2 theory initiativeグループが、ミューオン g-2の素粒子標準理論の予想値に関して統一見解に達し、その成果をまとめたホワイトペーパー(学術的に興味が集まっている研究分野の状況を総括・分析し、その現状と展望をまとめた論文)が公開されました。

 

「ミューオン」という宇宙線の仲間である素粒子は磁石の強さ(磁力)を持っており、磁力の強さのうち、量子効果に起因するものをg-2(異常磁気能率)と呼びます。g-2は標準理論から理論値を高精度で予想する事が可能です。g-2の標準理論の予想値と実験値を比較し、両者にずれが見られれば、そこから新粒子や新しい力といった、標準理論を超える新物理の兆候を掴む事ができると期待されています。

このような研究を行う上では、理論で導き出した結果と実験結果を精密に比べる事が重要です。そのためには、実験値と理論値の両方が高い信頼性で決められなければなりません。近年、理論研究に進展があり、いくつかの方法で計算結果を相互確認することや、新しい手法によりさらに高い精度を目指すことが可能になりました。今回、理論研究者を中心とする専門家が協力し、このような研究の流れを総括し、様々な確認を行い、g-2の理論値を決定しました。そうして今回のホワイトペーパーで、専門家全員の合意のもとに決められた理論値が発表されました。

g-2の値は磁場中でのミューオンと光子のやり取りから計算されますが、このやり取りの仕方には多数の組み合わせが考えられます。そこでg-2の理論研究では、組み合わせの種類ごとにグループ分けして、それぞれの専門家が計算し、全てをジグソーパズルのピースを埋めるように足し合わせることで1つのg-2の値を求める事が可能となります。組み合わせの種類は大きく分けて4種に分ける事ができます。1つ目は仮想光子をやり取りする反応(QED)、2つ目は電弱相互作用(Electro-Weak)です。残るはハドロン(注)をやり取りする反応(QCD)で、この内3つ目は真空偏極(光子が瞬間的に電子・陽電子対に変化する反応)、4つ目は光子-光子散乱(ライトバイライト:2つの光子がハドロンと相互作用して最終的にハドロンから2つの光子が飛び出す反応)です。

仮想光子をやり取りする反応を用いた計算は、木下東一郎 氏(コーネル大学名誉教授)、仁尾真紀子 氏(理化学研究所 仁科センター研究員)、青山龍美 特任准教授(KEK理論センター)といった日本の研究者が解析に大きく貢献しました。電弱相互作用に関する計算は石川正 准教授(KEK 計算科学センター)らの研究が参照されています。石川准教授は「g-2を求める実験は7桁まで数値を求める高精度なもので、対応する理論計算の精度も同様に高くする必要があります。電弱相互作用の寄与を検証する上で、近似なしの2ループ計算というものが必要なのですが、まず15年ほど前に4、5年かけてループが1つの場合の補正計算による先行研究を行いました。その研究で蓄積したノウハウを更に発展させた結果、世界で初めて電弱相互作用により補正計算を全て数値計算することができました。」とコメントしています。

ハドロンをやり取りする反応を用いた計算には、実験データを用いて計算する手法と、シミュレーションで計算する手法があります。このうち実験データを用いて真空偏極の項を計算する手法においては野村大輔 氏(2020年3月までKEK理論センター所属、同年4月から国際医療福祉大学 講師)らが大きく貢献しました。野村氏らは理論計算にCMD-2実験、SND 実験(共にロシア)、BaBar 実験(アメリカ)、KLOE実験(イタリア)などの実験値を用いました。近い将来、KEKで行われている Belle II実験からも同様のデータが発表されることが期待されています。この解析には野村氏らのチームの解析方法と、元はライバルだったチームの解析方法の2通りがありましたが、野村氏達は2つの方法の組み合わせ方を考え、真空偏極を用いた計算方法で世界基準となる値を1つ出しました。ライトバイライトにおいても新たな手法で計算された結果、ライトバイライトでの誤差が小さくなりました。

こうして得られたg-2の全ての項をまとめた結果、理論値は、2006年にアメリカのブルックヘブン国立研究所(BNL)で得られた実験値より3.7σ小さい値となり、これまでの個別グループによる見積もりと概ね一致する結果となりました。今回、国際研究グループによる分析・検証を行なったことにより、さらに理論値の信頼性が高まりました。

前代未聞の巨大な理論チームの共同研究は意見がまとまるまでに3年を要しました。理論計算は様々な工夫が必要で研究者によって計算方法が異なりますし、そこが研究者としての独創性に大きく影響します。2018年にKEKで開催した国際会議を皮切りに(ミューオンg-2のハドロン真空偏極をテーマとするワークショップをKEKつくばキャンパスで開催)、数年前まで互いにライバルであった世界中の様々な分野の理論研究者達は議論に議論を重ねました。年に1〜2回、各大学・研究機関が持ち回りで研究会も開催し、研究の詳細箇所にいたるまで徹底的に議論を重ねました。その結果、互いの研究の独創性を生かしつつ検証することにより、世界の専門家の合意を得た理論値を決定することができました。この過程で主要な役割を果たした日本とアメリカの研究者は、日米科学技術協力事業(高エネルギー物理学分野)の支援も受け、日米で開催された研究会で議論を重ねました。今年KEKで計画されていた研究会は新型コロナウィルスの影響で延期となりましたが、来年の開催を計画しています。

3年に渡る大規模な理論グループでの研究について、野村氏は「初めて行われたKEKでの研究会の時点では皆それぞれの意見があり、1つの理論値を協力して出すのに大きな努力が必要だと思っていました。ですが、メールや研究会で議論を重ねることで互いの理解を深め、最終的には一丸となって研究を進めるまでになりました。今は新型コロナウィルスの影響で直接会うことは出来ませんが、今後ともビデオ会議を使いながら大人数で議論を続けることができればと思います。」と共同研究開始直後の苦労から円満な現在となるまでを振り返りました。さらに、「g-2の理論値と実験値がずれるなら、その原因に興味があります。標準理論を超える物理が何者なのか知るのが生涯の目標です。」と今後の目標を語ってくれました。

g-2の標準的な理論値が定まりつつある中、実験的にその値を測ろうという計画もJ-PARCとアメリカのフェルミ国立加速器研究所で進められています。J-PARCの加速器を用いてミューオンのg-2の精密測定を目指す、ミューオンg-2/EDM実験開始に向けて準備を進めている三部勉 准教授は「理論側が標準値を出してくれたので今度は実験側で着実に測定を行い、実験値を出すことが重要になってきます。J-PARCの実験をいち早く立ち上げて、g-2の理論値と実験値がずれているか検証したいです。」と今後の実験に向けた意気込みをコメントしました。

ミューオンg-2 theory initiativeの代表を務めるイリノイ大学のAida X. El-Khadra教授は「g-2の理論値とその誤差の標準的な値を出す事が最初の目標でした。ホワイトペーパーを公開した現在は、理論値の誤差を減らす事を次の目標として研究を進めています。高精度で得られた理論値と実験値にもしずれが見られれば、そこから標準理論を超える新発見が見つかるはずです。」と、これからのg-2の理論研究の目標を語った上で、 「私達理論家のチームは、昨年物理解析のための本格的なデータ取得を開始したBelle II実験の測定結果が出れば、誤差の計算精度を飛躍的に改善できると期待しています。そして何より、J-PARCの実験も重要な役割を担っています。もしミューオンのg-2が標準モデルからの予想と矛盾する場合、J-PARCとフェルミ国立加速器研究所の全く異なる独立した実験でそれぞれ検証して裏付ける事が重要になります。超冷ミューオンを用いたJ-PARCの実験手法は本当に“クール”です!」と、ミューオンg-2/EDM実験にも期待を寄せていました。

用語解説

注. ハドロン
素粒子の仲間であるクォークが複数個結合してできた粒子。

論文情報

雑誌名
Phys. Rept. 887 (2020) 1-166
タイトル
The anomalous magnetic moment of the muon in the Standard Model
著者
T. Aoyama, N. Asmussen, M. Benayoun, J. Bijnens, T. Blum, M. Bruno, I. Caprini, C. M. Carloni Calame, M. Cè, G. Colangelo, F. Curciarello, H. Czyż, I. Danilkin, M. Davier, C. T. H. Davies, M. Della Morte, S. I. Eidelman, A. X. El-Khadra, A. Gérardin, D. Giusti, M. Golterman, Steven Gottlieb, V. Gülpers, F. Hagelstein, M. Hayakawa, G. Herdoíza, D. W. Hertzog, A. Hoecker, M. Hoferichter, B.-L. Hoid, R. J. Hudspith, F. Ignatov, T. Izubuchi, F. Jegerlehner, L. Jin, A. Keshavarzi, T. Kinoshita, B. Kubis, A. Kupich, A. Kupść, L. Laub, C. Lehner, L. Lellouch, I. Logashenko, B. Malaescu, K. Maltman, M. K. Marinković, P. Masjuan, A. S. Meyer, H. B. Meyer, T. Mibe, K. Miura, S. E. Müller, M. Nio, D. Nomura, A. Nyffeler, V. Pascalutsa, M. Passera, E. Perez del Rio, S. Peris, A. Portelli, M. Procura, C. F. Redmer, B. L. Roberts, P. Sánchez-Puertas, S. Serednyakov, B. Shwartz, S. Simula, D. Stöckinger, H. Stöckinger-Kim, P. Stoffer, T. Teubner, R. Van de Water, M. Vanderhaeghen, G. Venanzoni, G. von Hippel, H. Wittig, Z. Zhang, M. N. Achasov, A. Bashir, N. Cardoso, B. Chakraborty, E.-H. Chao, J. Charles, A. Crivellin, O. Deineka, A. Denig, C. DeTar, C. A. Dominguez, A. E. Dorokhov, V. P. Druzhinin, G. Eichmann, M. Fael, C. S. Fischer, E. Gámiz, Z. Gelzer, J. R. Green, S. Guellati-Khelifa, D. Hatton, N. Hermansson-Truedsson et al. (32 additional authors not shown)
DOI
10.1016/j.physrep.2020.07.006

リンク

関連リンク

ページの先頭へ