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稲垣隆雄 名誉教授および山中卓 大阪大学名誉教授が「2025年度諏訪賞」を受賞

KEK名誉教授の稲垣隆雄氏と、大阪大学名誉教授で現・KEK特任上席URAの山中卓氏が、公益財団法人高エネルギー加速器科学研究奨励会2025年度奨励賞(諏訪賞)を受賞しました。
受賞対象となったのは、大強度陽子加速器施設J-PARCハドロン実験施設のKOTO実験が進める研究において、「CP対称性を破るKL → π0νν 稀崩壊探索における革新的実験手法の確立と、長年にわたる新物理探索研究への実験的貢献」が高く評価されたためです。

この賞は、高エネルギー物理学研究所初代所長・諏訪繁樹氏の功績を讃えて作られたもので、高エネルギー加速器科学の発展への寄与が特に顕著であったと認められる研究者、技術者、研究グループならびにプロジェクトグループに対し(財)高エネルギー加速器科学研究奨励会より贈られるものです。

 

~お二人から受賞に対するコメントをいただきました~
稲垣氏「授賞式に合わせて、仲間たちがお祝いをしてくれ、そこで、久しぶりに物理の話ができて、楽しい一日でした」

山中氏「私が好き放題にこれらの実験をやってこられたのは、優秀なスタッフと学生さんの苦労と活躍があったからです。この賞はそのみんなに頂けたものだと思っています」

 

KEK 12GeV 陽子シンクロトロン(KEK-PS)最終盤の実験であるE391a から、J-PARCでのKOTO実験へ――。 長寿命の中性K中間子(Kロング、KL )が中性パイ中間子(π0)と2つのニュートリノ(νν)に崩壊する、きわめて稀な現象「KL → π0νν 」の探索は、この半世紀にわたり発展してきました。その歩みを、お二人に語っていただきました。


「諏訪賞」受賞記念対談~中性K中間子の稀崩壊の探索の歩み

――諏訪賞のご受賞、おめでとうございます。まずは稲垣先生にお聞きします。KEKに入られたのはいつ頃でしょうか。

稲垣:
1972年ですね。当時はKEK-PS(図1)の建設が始まったばかりでした。日本として初めて、本格的に世界と競争できる高エネルギー加速器をつくろうという、悲願のプロジェクトでした。ところが1974年、チャームクォーク(J/ψ 粒子)が発見されました。これはKEK-PSでは到達できないエネルギー領域でした。正直、「何のためにやってきたのか」と方向を見失うような衝撃でした。

その後KEK-PSは稼働しましたが、同規模の加速器が世界で次々と停止していく中、残ったのは米国ブルックヘブン国立研究所(以下、ブルックヘブン)のAGS加速器とKEK-PSでした。しかし、AGSは、エネルギーもビーム強度もKEK-PSよりはるかに高い。パワーでいえば数十倍の差があった。そういう状況からの出発でした。

――稲垣先生は当初、どの分野に興味をお持ちだったのですか。

稲垣:
学生のころ、東大原子核研究所(当時)の電子シンクロトロンを使って、フォトプロダクション(ガンマ線を用いて粒子を生成する反応)をやっていたので、KEK-PSで最初に手がけたのは、ハドロン物理です。グルーオンだけの状態(グルーボール)が存在するかどうかを探す実験です。
データは良かったと思います。ただ、ハドロン物理ではファイナルステート相互作用など理論的不確定性が多く、結果を「プラスマイナス何%で決まりました」と明快に言い切れない。私はそれがどうも性に合わなかった。それで、ある意味“夜逃げ”のように、そのグループを離れました。

転機はKEKの賀詞交歓会でした。当時の菅原寛孝機構長が「標準模型を超える物理(Beyond the Standard Model)」について語られ、長寿命の中性K中間子「Kロング(KL)」がミューオン(μ)と電子(e)に崩壊する現象(KL → μ± e )が見つかっていないことが、新しい理論に強い制限を与えていると紹介されたのです。それでこの崩壊をやろうと決めました。当時は知識も十分ではなく、米国アルゴンヌ国立研究所でのジェイムズ・クローニンらのKL → μμ の実験論文を徹底的に読み込みました。論文が七色になるくらい色鉛筆を使って(笑)。装置構成も徹底的に検討し、スパークチェンバーをドリフトチェンバーに替えました。ブルックヘブンの2つの実験と競争になりましたが、2〜3年間は世界最高感度(最も厳しい上限値)を維持できました。

――ブルックヘブンとは、加速器性能で大きな差があったのに、実験では優位に立てた。その理由は?

稲垣:
技術的な話になりますが、同じ大きさのスペクトロメーターで、同じ位置精度で粒子の軌跡(トラック)を測ると、運動量の分解能は運動量に比例します。つまり、粒子の運動量が低いほど、より精度よく測定できるのです。我々は低エネルギーでの実験だったので、そのメリットを活かしました。ドリフトチェンバーにかける高電圧を意図的に下げて位置分解能を悪くしても、運動量分解能を保持できたのです。そして、高電圧を下げることで、ハイレート耐性も確保できました。フェルミ国立加速器研究所(以下、フェルミラボ)でセミナーをしたとき、「世界で最もハイレートでドリフトチェンバーを動かす研究者」と紹介されましたが、それには、そういうカラクリがあったんです。KEK-PSが低エネルギーだからこそ、勝負できたのです。この競争で、KEKにもそういうグループがいると認めてもらえ、国際会議にも呼ばれるようになりました。

次に何をやるのか――
世界では、より高強度の加速器計画が議論されていました。そんな中、ある国際会議で、ブルックヘブンのローレンス・S・リッテンバーグが提案したのが、Kロングが中性パイ中間子と2つのニュートリノに崩壊する現象、KL → π0νν の探索でした。誰も考えていなかったから、会場は驚きました。この崩壊は、理論的な不確かさが非常に小さい一方で、起こる確率がきわめて低いし、実験もとても難しい。だからこそ、もし観測できれば、標準模型を精密に検証し、新しい物理の兆しを探る強力な手段になる。こうして、後に世界的なテーマとなる「KL → π0νν 探索」が動き始めました。

ブルックヘブン、フェルミラボ、そしてKEKも計画を立てました。アメリカの計画は非常に大規模で資金的にも厳しかった。一方、KEKの計画は比較的身軽でした。当時、日本のグループは三つに分かれていました。京都大学はブルックヘブン、大阪大学はフェルミラボ、KEKは独自路線。結果的に我々が先に進めたことで、皆をまとめることができた。それは実力というより、幸運だったと思います。

 

そして、その流れが KEK-PSでの E391a 実験(以下、E391a )へとつながっていきました。

――E391a は、KEK-PS最終盤の実験でした。

稲垣:
E391a は、ある意味でKEK-PSの“死に水”を取った実験です。KEK-PSから出る最後のビームを使いました。建設から見続けてきた加速器で、最後にあの実験ができたことは、感慨深いものがあります。KEK-PSの代表的な成果としてはK2K実験がよく挙げられますが、私にとっては今回の受賞によって、K中間子の実験でも評価を得られたことが本当にうれしかった。建設の頃から一緒にやってきた仲間たちに、少しは恩返しができたかなと思っています。

 

――今回の受賞理由に、「ペンシル状の高品質中性K中間子ビーム」と「全VETO型測定器」が革新的だったとあります。これは、まったく新しい検出器を考え出したということですか。

山中:
VETOは、「他に(粒子が)何も来ていない」ことを確かめる装置です。特別な装置というより、“何もないことを確認する”ための検出器ですね。

――それ自体は以前からあったのですか。

山中:
ありました。ただ革新的だったのは、Kロングが崩壊する空間を、文字通りすべてVETO検出器で囲ってしまったこと。そして、それらを真空タンクの中に入れてしまったことです。(図2参照)

稲垣:
Kロングは電荷を持たない粒子です。磁石では曲がらないし、どこを飛んでいるのかもはっきりしない。ビームには中性子やガンマ線がたくさん混ざります。さらに、私たちが探している崩壊、KL → π0νν では、ニュートリノは検出できません。見えるのは、中性パイ中間子が壊れてできる「2つのガンマ線」だけです。しかし、ガンマ線はどこにでもある。2つのガンマ線が見えたからといって、それが本当にこの崩壊からかどうかは分からない。そこでまず、ビームを鉛筆のように細く絞り、崩壊位置をできるだけ限定する。これが「ペンシルビーム」です。

そしてもう一つ。もし他の粒子がひとつでも出ていれば、それは目的の崩壊ではない。だから、崩壊空間をぐるりと取り囲み、「何も出ていない」ことを確認する。これが「全VETO型」という発想でした。

しかし問題はそこからでした。

Kロングも中性子も、物質と強く相互作用します。空気が少しでもあれば、そこで反応が起こり、背景事象が発生してしまいます。この崩壊の確率は10-11 程度。つまり、1千億回に数回しか起きない。空気分子との衝突を抑えるには、大気圧から10桁以上も圧力を下げる必要がありました。

測定器は本来、真空的に見て、“きれい”ではありません。隙間もあるし、脱ガスの多い材料もある。普通に真空に入れたのでは10桁も圧力を下げることは到底無理です。そこで考えたのが、真空を段階的につくる方法でした。崩壊領域だけを超高真空にし、その外側は普通の真空にする。その間は薄い膜で仕切る。外圧が小さくなれば、測定器の性能に影響しないほどまで、膜は薄くできる。これが「差動排気(ディファレンシャル・ポンピング)」というアイデアでした。

山中:
実験全体、概念として非常に大胆でした。

――この測定器を思いついてから完成まで、どれくらいかかりましたか。

稲垣:
作りながら考える部分もありました。予算と相談しながら。

山中:
私が当時、レビューを担当していたんです。「この予算、この期間、この人数では無理だ」という報告書を書きました。

稲垣:
概念が固まってからは、削れるものは削り、ぎりぎりまで詰めました。後を引き継いだ人たちは、苦労したと思います。

 

――E391a には、 VETO型検出器や差動排気など、他にはあまり見られない技術が数多く盛り込まれたのですね。

稲垣:
グループに、新しいものが好きな人がいたんです。「その材料ならあの会社にあるよ」と教えてくれる。先輩の吉村喜男さんですね。そういう存在が大きかった。装置づくりが始まったときには、もう一人の先輩の奥野英城さんに「頼むから一緒にやってくれ」とお願いしたんです。奥野さんはすごいんです。物を作るときは、まずきちんとスケジュールを立てる。そして、そのスケジュール通りに進める。工程の途中にテストもきちんと組み込んでいて、段取りが徹底している。だから、準備という意味では非常にスムーズに進みました。

山中:
稲垣さんが次々にアイデアを出して、それを奥野さんがひとつひとつ実現していったんです。

 

――受賞理由には、「理論的不定性が小さい一方で分岐比が極めて小さい本過程の探索は、当時きわめて困難と考えられていたが、稲垣氏は独創的な実験設計により、世界で唯一この課題に正面から取り組む道を切り拓いた」ともあります。フェルミラボやブルックヘブンの計画より特出していた、ということですか。

稲垣
彼らは結局、実現できなかったんです。だから、この測定システムは今でも唯一ですね。

 

――E391a が動き始めた2000年前後は大きな成果が相次いだ時代でした。CP対称性の破れについて、K中間子やB中間子で新たな測定や発見がなされました。そんな中で、何か感じていたことはありましたか。

稲垣:
面白いと思っていたのは、どうしてこんな低エネルギーの実験で、そんな根本的な話に迫れるのか、というところなんです。

Kロングは、ストレンジクォークとダウンクォークからできていますが、中性パイ中間子に崩壊するには、ストレンジクォークがダウンクォークに変わらないといけない。ところが、その変化は直接には起こらない。フレーバーを変える中性カレントは禁止されているからです。そこで一度、別のクォークを経由して、弱い相互作用を二回通る “回り道”をする。これがGIM機構と呼ばれる仕組みです。途中でいろいろな寄与が足し合わされますが、小林・益川理論の構造によって、ほとんどが互いに打ち消し合う。ただ、クォークの質量がそれぞれ違うため、わずかなずれが残る。特に効いてくるのが、非常に重いトップクォークです。KL → π0νν では、トップクォークの寄与が支配的になります。トップクォークは重いため、長距離の強い相互作用の影響をほとんど受けない。だから理論計算が非常にきれいにできる。標準模型で約2%の精度で予測できる、そんな崩壊は実はあまりないんです。

――当時、トップクォークはまだ見つかっていませんでした。

稲垣:
KEKのトリスタンリングは、電弱相互作用の研究を目的にした加速器ですが、「もしトップクォークが軽ければ直接生成できるかもしれない」という期待もありました。理論家の中には、Kロングがミューオン対に崩壊する、KL → μ+μ の解析などから、トップクォークの質量は40GeV程度かそれ以下ではないかと推定する人もいた。だから、トリスタンでもいけるのではないかと期待していたんです。しかし、トップクォークははるかに重く、フェルミラボで1995年に発見されました。トリスタンでは直接届かなかった。それは正直、ショックでしたね。だからこそ、今度は間接的にトップクォークの効果を測る。トップクォークの質量に強く依存するこの崩壊を、きちんと測定したいと思ったんです。

――E391a はいつまで続いたのですか。

稲垣:
2004年にデータ取得を始めて、2年ぐらいですね。

 

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――ここから山中先生にお聞きします。フェルミラボでKTeV 実験を通じて中性K中間子物理を牽引してきた研究者と紹介されていますが、学生の時はどこに?

山中:
修士の途中から下宿を引き上げてKEKの宿舎に(1981年から)4年間住んでいました。

稲垣:
そこで我々は出会っているんです。よく覚えていますよ。彼は、よくKEKの東カウンターホールのあたりで、一輪車に乗ってふらふらしていた(笑)。

 

――その頃はどんな研究をされていたのですか。

山中:
荷電K中間子がミューオンとニュートリノに崩壊する過程を使って、右巻きニュートリノが混じっていないかを探していました。もし見つかれば標準模型を超える物理の発見になります。

その後どうするか考えたとき、KEKに住んでいたこともあって、まわりの研究者の方に世界の動向をいろいろ聞いていました。その中でフェルミラボの実験が面白いと勧められ、応募してポスドクとして採用されました。1985年から7年間、フェルミラボにいました。テーマはCP対称性の破れでした。シカゴ大学のブルース・ウィンスタインが率いるE731 という小さな実験グループで、私がフェルミラボから参加した最初のポスドクでした。規模は小さいけれど、自由度は高かった。

1988年には同僚のY・W・ワーと、Kロングが中性パイ中間子と電子陽電子に崩壊する、KL → π0e+e の稀崩壊実験を提案しました。当時は24-30 GeVで大強度の陽子ビームを持つブルックヘブンが稀崩壊のメッカだったのですが、フェルミラボの800 GeVという高いエネルギーの陽子を使って多体崩壊やガンマ線を含む稀崩壊を研究するという新しい境地を切り開きました。CP対称性の破れの実験は当時CERNとの激しい競争があり、結果が食い違ったため、双方が感度を一桁上げた次世代実験を行うことになりました。その一つがフェルミラボのKTeV実験です。

KTeV実験には二つの柱がありました。CP対称性の破れの精密測定と、稀崩壊の徹底探索です。後者の責任者がワーと私でした。1992年から大阪大学に所属、1995年から再びフェルミラボに滞在し、実験を立ち上げました。1999年にはCP対称性の破れが小林・益川理論と整合する結果を出しました。稀崩壊でも多くのモードで世界最高感度を達成しました。その中に KL → π0νν もありました。このモードを強く意識したのは、1988年の夏、ブルックヘブンのローレンス・S・リッテンバーグが提案を紹介したときです。最初は「そんな難しいことができるのか」と思いましたが、夏の米国コロラドでのワークショップでシミュレーションを行い、その実験手法が見えてきました。

 

KTeV実験では、中性パイ中間子が電子陽電子とガンマ線に崩壊する、  π0 → e+eγ を使って探索しました。中性パイ中間子のこの崩壊だと、ドリフトチェンバーで崩壊点を再構成できるからです。これで博士論文を書いたのが、当時の学生、花垣和則君(現・KEK理事)です。ただ、電子を使う方法は効率が限られる。やるなら中性パイ中間子のガンマ線2本への崩壊で勝負するしかない。そう考えるようになりました。そのころフェルミラボでは120 GeVの高強度陽子ビームを使うメイン・インジェクター計画が進んでおり、稀崩壊に理想的だと考えてKTeV実験グループの一部がKAMI実験を提案しました。しかし2001年、最初のPACで不採択となりました。せっかく色々な希望を描いていたのに全部潰れたんですね。どうしようかなと思って、稲垣さんに頭を下げました。E391a 実験に混ぜてくださいって。

稲垣:
山中さんたちのグループは本当に強力でした。KTeV実験では崩壊分岐比の比を精密に測る実験をやっていて、緻密さが違う。また、稀崩壊に対する感度が圧倒的に高い。一つ例を挙げると、KTeV実験が取り組んだ、Kロングが中性パイ中間子と電子陽電子に崩壊する、 KL → π0e+e の実験はKEK-PSでも京都大学の笹尾登さんたちのグループがやろうとしていた。お互いに競争相手ですね。たまたまシカゴ大学のブルース・ウィンスタインがKEKに来たとき、私が笹尾さんらの実験場所を案内したんです。準備中の装置の前で、大学院生に細かいところまで質問して、1時間以上そこにいた。あれはすごいと思いました。とにかく、学習意欲が強く、緻密なんです。そのウィンスタインが率いていたのが、山中さんのいたグループです。だから、もしKAMIが通っていて、あのチームが本格的にKL → π0νν に乗り出していたら、こちらはかなり厳しかったと思います。

 

――KOTO実験の構想は、どのように始まったのですか。

山中:
J-PARCが建設されることになり、ならばKL → π0νν をやろう、という流れは自然にありました。山鹿光裕さんが中心となってシミュレーションを走らせたり、総動員でプロポーザルをまとめ、2006年に提案しました。

――装置はE391a のものをそのまま使ったのですか。

山中:
使えるものは全部使おう、と。大きな真空タンクやフォトンVETOカウンターは、そのまま持っていくことにしました。(図3参照)

稲垣:
つくばで慎重に解体して、東海で組み立て直したんですよ。VETO検出器も中央部分は改良しています。E391a では予算が厳しく、削れるところは削った。KOTOではその反省も踏まえて改良が入りました。

山中:
E391a で一つ課題だったのは、カロリメーターに使っていたCsI 結晶でした。当時は7センチ角、長さ30センチの結晶を使っていたのですが、ガンマ線2本が近くに飛んできたときに分離しにくい。それから、ガンマ線が反応せずに結晶の後に抜けてしまうこともある。ガンマ線を見失うのが一番怖いんです。たとえばKロングが中性パイ中間子を2つ出す崩壊をして、そこから4本のガンマ線が出る。そのうち2本を見失うと、あたかもガンマ線2本だけのイベントに見えてしまう。これは致命的な背景事象になります。

ちょうどそのころ、フェルミラボのKTeV実験は終わっていました。KTeVでは2.5センチ角、長さ50センチの高性能CsI 結晶を3100本使っていた。結晶が細いのでシャワー形状もきれいに測れる。あれが使えれば、フォトンの識別能力は大きく上がると考えました。それで、フェルミラボに行くたびに上の方の人に「結晶を貸してほしい」とお願いしていました。最初はなかなか首を縦に振ってもらえなかったけどあるとき急に、「タク、あれ持っていっていいよ」と言われた。やはり言い続けることは大事ですね。

稲垣:
もともとその結晶はアメリカ側が買ったものですが、読み出しのフォトマルは大阪大学が日米科学協力の予算で買っていた。だから半分は権利がある、という話もあったようですね。

山中:
CsI 結晶は乾燥した環境で保管しないと劣化します。フェルミラボにとっても維持管理が負担になっていた面はあったと思います。

稲垣:
2011年の東日本大震災のときを思い出します。私はまだKOTOのグループの一員として手伝っていて、ちょうどJ-PARCに行っていました。E391a から持っていった装置を組み立てていたんです。作業が終わって帰る途中、水戸で梅を見ているときに地震が起きた。KOTOは大きなダメージを受けました。

山中:
CsI 結晶は一度フェルミラボから大阪大学に運び、全部検査してからJ-PARCへ送って、2700本を積み上げて、ようやく完成した。(図4参照)その1か月後に地震が来たんです。結晶を積んだシリンダーがレールの上を滑ってずれました。停電で除湿器も止まり、結晶の保管環境も危うくなった。すぐにKEKのイム・ケヨブさんらが除湿剤を運び込んで対応しました。後日、阪大の李 栄篤さんと現地に行き、ずれや破損がないか確認しました。鏡とカメラを使って内部を調べましたが、大きな割れはなかった。ただ積み直す勇気はなく、外川学さん(現・KEK素核研 准教授)らと補強して使える形に改良しました。

稲垣:
元に戻すのに2年くらいかかりましたね。

 

――受賞理由には、高性能電磁カロリメーターの導入と、背景事象の抑制能力の飛躍的向上が感度を一桁以上高めたとあります。

山中:
感度が上がった理由はいろいろありますが、一番大きいのはJ-PARCのビーム強度です。強度が非常に高い。それを実感したのは2013年でした。装置が完成して走り始め、約100時間データを取った段階で、ハドロンホールの事故でビームが止まってしまった。ですが、その100時間分のデータを解析したところ、それだけでE391a とほぼ同じ感度が出たんです。つまり、まずビームの強さが圧倒的だった。その上で、高いレートに耐えられる検出器とデータ収集システムがありました。データ収集システムはシカゴ大学やミシガン大学が専用回路を作って構築しました。

背景事象の抑制は、稀崩壊実験の醍醐味です。あまりに稀なので、普通にシミュレーションを走らせても背景事象が現れるだけの事象を生成できない。そこで、背景事象となりうるケースをいろいろと考えてそれに絞ったシミュレーションをします。それでも、感度を上げるたびに思いもつかない背景事象が現れます。例えば、中性子が結晶に直接当たり、エネルギーを落として飛び去ると、ガンマ線2本のイベントに見えてしまう背景事象が見つかりました。常磐線の車内で、南條創さん(現・大阪大学大学院理学研究科 教授)と話していて、同じアイデアに行き着いた。新たな薄い光検出器を結晶の上流側につけ、下流側の光電子増倍管との時間差を使って、粒子が反応した深さを見ればいい、と。そこで清水信宏さん(現・千葉大学 助教)、小寺克茂さん(現・大阪大学 特任研究員)らスタッフと学生さんが周到な準備をし、真空タンクを開けて、カロリメーターの大改造をしました。そうやって背景事象を一つ一つ潰していきました。

――議論して、すぐに実装できたわけですね。

稲垣:
E391a も大変でしたが、相手がいて競争があったのでモチベーションは保ちやすかった。KOTOは約20年、事故や問題に見舞われながら続けてきた。そこは本当にすごいと思います。

――代表者として逃げられない立場だったと思いますが、どうやって続けてこられたのですか。

山中:
逆だったかもしれません。次々と問題が起きたからこそ、「どうする」と皆で考える。その対策は大学院生でも担える。実際に学生が新しい手法を考え、装置を改良し、背景事象を落とせた例もありました。コラボレーションが巨大すぎなかったのも良かった。ちょうどいい規模で、ステップ・バイ・ステップで進められた。それが続いた理由かもしれません。

――KOTO実験は国際共同実験なんですね。

山中:
はい。アメリカ、台湾、韓国などが参加しています。

――2013年ごろ、データ収集を始めた当時は、何人くらいの体制だったのですか。

山中:
40〜50人くらいですね。今はもう少し少ないかもしれません。

――山中先生はKOTO実験を何年まで率いていたのですか。

山中:
スポークスパーソンを務めていたのは2021年までです。本当はもう少し早く次に引き継ぎたかった。
ただ、一つ大きな出来事があって。信号領域(箱)を隠したまま、選別条件を全部決めて、これで大丈夫だろうというところで“箱を開け”たら4イベント見えてしまった。さすがに「新しい物理が見えた」と言い切る自信はありませんでした。そこから延々とスタディが始まり、そのまま次の人に渡すわけにはいかず、少なくとも整理はつけてからにしようと思って、結果的に少し遅くなりました。最終的には想定していなかった背景事象があることが分かり、それに気づいたKEK素核研の野村正さんが今はKOTO実験を率いています。

――現在のKOTOはどんな状況ですか。

山中:
大きな問題はほぼ潰せています。あとはビームさえ来れば、データを積み上げられる。J-PARCのハドロン実験施設ではターゲットは一つですが、複数の実験が同時に走れる。我々は専用ビームラインを持っているので、ビームが出ればデータは取れます。ただし、標準模型によるイベントを見るところまでは、おそらく届きません。そこで感度をさらに二桁上げ、40イベント程度を狙う次世代計画が進んでいます。中心になっているのは南條さんです。ヨーロッパのグループも巻き込んだ新しい体制を作ろうとしています。

 

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――お二人はこれまで研究一筋で歩んでこられましたが、もし研究者になっていなかったら、何をされていたと思いますか。

稲垣:
子どもの頃に、黒部第四発電所の建設のドキュメンタリー映画を観て、土木を勉強したいと思いました。川とか、水の流れをどう制御するか。ああいうのが面白かった。大学のときに土木をやっている友人がいて、洪水のときには水面が斜めになる、だから堰堤の高さも変わる、という話を聞いてね。確かにそうだ、と。そういう自然の現象をどう扱うか、というのが好きでした。
でもまあ、自然の流れでこちらに来てしまいましたね。今は、生物学に興味があり、普及本を見て楽しんでいます。

山中:
高校までは飛行機が好きで、パイロットか、設計者か、管制官か、整備士かになろうと思っていました。ただ、高校の物理の授業がものすごく面白かった。毎回実験をして、そこから法則を導いていく。ああ、物理ってこうやって組み上がるんだと。それから『物理の散歩道』という本に出会いました。日常の現象が、シンプルな物理の概念で説明できる。複雑なものが整理される感覚があって、そこで完全に物理に転びました。
ドクターを取った後、実は少し迷いました。コンピュータも好きだったので、人工知能の方向に行こうかと考えたこともある。でも目の前の実験が面白くて、そのまま続けているうちに今に至ってしまいました。

――最後に、若い世代に向けて、行き詰まったときのアドバイスがあればお願いします。

稲垣:
研究で行き詰まったなら、まず何に詰まっているのかを聞きますね。そして、一人で悩むなと言う。
実験は一人でやっているわけではない。仲間がいる。先生がいる。友達がいる。相談すればいい。私自身も、直接ぶつけていました。

山中:
私自身が大きく行き詰まったのは、KAMI 実験 が不採択になったときと、KOTO実験で米国の大学の予算が突然打ち切られたときです。そのときは伊丹空港に行って、飛行機を眺め、何か励まされて頭を切り替えました。
学生の相談も多かったですが、私は少し距離を取って、「それ本当にそうか?」と問い返します。常に一歩か二歩下がって基本に立ち返って見る。あと、頭をふっと軽くして新しいアイデアを出すのが好きなので、ジョークか本気か分からないことも言います。先生の言うことを信じない癖をつけるため、自由に発想してほしいためです。自分で考えることが大事だから。

――ありがとうございました。

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