【KEKのひと #30】山を旅して世界を知った 北村節子(きたむら・せつこ)さん 2/3

 

初めての海外が、当時は「世界最貧国」の、今は「後発途上国」のリストに載るネパールだったこと。ましてそこで、隊荷15トン(これでもそれまでの外国隊に比べると、最貧・最小サイズ)を陸路人力で運ぶために600人もの現地の人を低賃金で雇ったことには、「人間の不条理や、社会構造の違いを思い知らされる」ことになった。彼らは雪の峠を越えるにも、登山隊が調達、配布した安いズック靴を履こうとしない。新品のまま市場で売るためだ。30キロの隊荷と一緒に赤ん坊を背負った女性もいた。たまたま日本に生まれただけの25歳の自身が突然、貧しい人たちを大量に雇う立場に立ったことは、以後の取材が貧困、労働、人口などに向かっていくきっかけにもなった。

登山隊のベースキャンプは標高5,350m。「新人二等兵」としては、ここでの荷物管理だけを命じられても文句は言えない、と覚悟していた。が、国内では難ルートをこなしてきた先輩メンバーが次々に高山病で脱落する中、若く高度順化が良かった自身はアイスフォール(氷河の崩落する壁)を越え、7,000メートルラインまで荷上げを敢行した。「2階級特進?いやいや、3階級ぐらい上がったかな?」。雪崩事故などもあったが、どうにかクリアした隊は、田部井淳子さんがピークに立ち、大方の世間の予想を裏切って、女性としては世界で初めてのエベレスト制服を果たす。1975年5月16日のことだった。

この年はたまたま、国連の「国際婦人年」。国際社会を挙げて女性の地位向上を図ろうという大規模キャンペーンが展開された年でもあった。これに続く「国連婦人の10年」(現在は「女性の10年」と表記)に向けて、日本の女性が置かれる状況も大きく変わりつつあった。帰国後は「女性の記事を書け」と婦人部(当時)所属に。国内では、77年に「国内行動計画」が作られ、行政でも産業界でも家庭でも、女性の意識についても、女性に関するシステムについても、書くべき変化はいくらでもあった。中で、気になったのは人口問題。核家族が増え、子供の数が減った。「年齢別人口構成が劇的に変わっていく。これは高齢者比率がかつてなく高くなるぞ。社会保障はどうなる?マンパワーはどうなる?」。人口問題記事をずいぶん書いた。このテーマの先鞭をつけたかな、という「ささやかな自負」がある。

1982年、当時「鉄のカーテンの向こう」と言われていたソビエト。社会主義が揺らぎ始めた様子を取材して来い、と言われて2週間ほどあちこちを転戦。 同行のカメラマンとオデッサで。つねに通訳兼監視人がついたが、ここで振り切って取材したら、一時身柄拘束された思い出が。これはチーム取材だったが、チームが同年のボーン・上田国際記者賞(優れた国際取材に贈られる賞)を受賞することができた

一方で、エベレスト以後も山との縁は続いた。週末に、あるいは長期の休みごとに、田部井さんと国内外の山に出かけた。南米、ヨーロッパ、インドなど、女性で隊を組んで、あるいは二人だけで、10歳の年の差がありながら、コンビ付き合いをさせてもらった。「師匠であり、姉であり、あんた、と呼び合う仲になりました」。「二人で行けばどこでも行ける」ような気がして、中国政府が海外に開いたばかり、チベット奥地のシシャパンマ峰(8,012m)にも外国隊として初めて遠征。女子隊の隊長・副隊長として成功した。「出たとこ勝負」の山旅もした。インドの山岳国際会議に二人で出席した折には、地元の山岳学校と直交渉、その場で5,400m峰の許可をもらい、ザイルまで借りてほとんど突撃登山。黄色い花が絨毯のように広がる草原、羊が群れる牧歌的な風景を越え、急峻なガリー(岩の狭い溝)を経て、人の痕跡さえない広大な氷河の別世界を登る、といった旅だ。

田部井さんは、世界7大陸最高峰登頂でも世界女性初のタイトルを手にしたが、そのうち、4つは一緒だった。南極大陸最高峰では、零下30度の中、ビンソンマシフ峰(4,892m)におそろいで注文した分厚い羽毛服で登頂、白夜の深夜2時だった。ヨーロッパ三大峰を二人で制覇しようとマッターホルン、アイガーは成功したものの、三つめのグランドジョラスでは頂上直下のルートが崩落していて、ギブアップ。そういうとき、「ま、こんなもんよ」と笑いあった。

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