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水素の電子は、どこ?

物構研ハイライト
2015年12月24日

印刷技術を利用して、電子回路やデバイスなどを作る「プリンテッドエレクトロニクス」は製造業の在り方を大きく変える可能性がある。大型の真空装置や高温処理が不要になれば、コストや、資源、環境負荷といった面で利点がある。

そのためには材料をインクのように溶かして使える、有機物の半導体や誘電体(絶縁体)が一つの方策として研究されている。もし有機物で作ることが出来れば、薄くて軽い、フレキシブルなディスプレイなども可能になると考えられている。

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プリンテッドエレクトロニクスの実現を目指し、研究を進めているのが産業技術総合研究所フレキシブルエレクトロニクス研究センター・フレキシブル材料基盤チーム(研究チーム長、堀内佐智雄氏)。東京大学大学院工学系研究科(当時、現在は理研) 賀川史敬講師らと共同で、有機物で誘電体になりうる物質探索を行っていた研究チームは、2012年、イミダゾールが誘電体として有用であることを発表し※1。イミダゾールは、とてもありふれた化合物で樹脂の硬化剤や銅の防錆剤に、時には触媒としても用いられている。また生体内にもある物質で、ビタミンB12にも含まれているほど、汎用的なもの。当たり前の存在すぎて、誰も誘電体として見たことがなかったのだ。

そんなイミダゾールに誘電体の可能性を見出したきっかけは水素結合だという。水素結合では電子がゆるく束縛されているため、外部から電場をかけると 結合内で電子が動き、電荷の偏りを作りやすい。有機物で水素結合を含む構造としてイミダゾールにたどり着いた。誘電体の性能に求められるのは、外部からの 電場に呼応して電荷の偏りが出来ること、また外部電場を反転した時に、それに応じて電荷の偏りも反転すること(図1、2)。それには、水素結合の中にいる 電子一つがどこにいるのかを精緻に確かめなければならないのだ。

図1 誘電分極の模式図
図2 分子結晶内の水素結合による誘電分極

X線でも水素は見える!?

物質の構造を原子、分子レベルで調べるには、X線や中性子などが使われている。電磁波であるX線は電子に散乱され、電荷を持たない中性子は原子核に散乱される。そのため、電子を一つしか持たない水素はX線で観るのが難しい。特に材料中に少しだけ紛れている水素を見るのは、なお一層困難である。一方、電荷を持たない中性子は、電子の雲をすり抜け原子核を直接見る。特に水素は中性子にとって見え易いため、材料中の水素を見る場合、全体の構造はX線で、水素の位置は中性子で、と組み合わせて使われることが多い。ところが今回見たいのは水素結合をしている電子。中性子で水素の原子核の位置を見ることは出来ても、電子を見ることは出来ない。誘電分極がきちんと起きていることを原子レベルで確かめるには、この難題をクリアしなければならない。それを今回、やってのけたのがKEK物質構造科学研究所の熊井玲児教授。「よくX線で水素は見えない、と説明されますが、そんなことはありません」と断言する。かつては産総研に在籍し、ユーザーとしてフォトンファクトリー(PF)で実験していた。現在は構造物性グループを率いるリーダーを務めている。

確かに、普通にX線で見ただけでは、分子の電子雲が目立ち、水素の電子一つは良く見えない。特に今回のように、水素結合の電子が結合の中央にいるか、どちらかに偏っているかが物性として重要な場合、電子の位置を正確に決めることが求められる。熊井氏はこうした水素結合も含めた物質の構造決定のエキスパート。これまでにも有機物の結晶中にある水素結合の姿を捉えることに成功している。別の物質の例ではあるが、実際に測定したものが、図3になる。電子雲の姿から、原子の位置やそれらの結合、分子の形が分かる。注目の水素結合は図3の拡大部分。右は6員環の窒素と酸素との間にうっすらと電子が広がり、つながっているのが見て取れ、左は完全に途切れているのが分かる。水素結合に寄与している酸素原子の左右両者を見比べると、左側の酸素原子にはコブのようなものが見える。曰く、このコブが水素の電子一つである。右側ではツルッとして見えているのは、水素原子が無秩序化して空間に広がって分布しているためである。より精密に解析する場合、結晶構造から水素以外の原子による電子分布を仮想空間で作成し、X 線測定から得られた電子密度との差分を取って確かめる。水素原子に依る小さな電子密度を明瞭にするためだ。この解析をまた別の物質で行った例が図4になる。全電子密度(図4左)ではツノのようにしか見えていない水素結合の姿が、差分を取ることで筑波山のような二コブの電子密度がはっきりと現れる(図4中央、右)。こうした様々な解析を駆使し、イミダゾールで誘電分極が起きていること、そして外部電場に応じて電荷が反転することを確認した。

図3 Phz-h2ca (フェナジン-クロラニル酸)の全電子密度図と、水素結合部分の電子密度の拡大※2
図4 (H2tppz)(Hca)2の全電子密度(左)、中央が水素結合の水素以外の電子密度(計算)を引いた差分、右は水素結合部分の電子密度の等高線図の拡大※3

汎用的な素材×測定

この実験は、PFの中でも汎用的な光を使うビームラインで、装置も手法もX線回折という、至って汎用的なもので行われた。それでも、材料中にある水素の電子をX線で正確に決めることができたのは、差分を取るというアイディアと、それを可能にした結晶、そして精緻な解析。「この手法はきれいな結晶を探すことが実験の80%。そのくらい結晶のクオリティが大事」と語るほど。材料中にある水素の電子一つを正確に決めるのは、不可能ではないけれど難しいのは確か。いい加減な結晶で差分を取れば、間違えた構造を導きかねない。それを十分に理解しているからこそ、慎重に構造を決めていった。

イミダゾールの単結晶が、誘電体として使えることを構造から証明し、トランジスタで使用することを想定した薄膜の状態でも同じ構造を取っていることを確認した※4。半導体、誘電体、と順に有機物の材料探索、機能性を確かめ、次はトランジスタとして動作することを狙っている。

プリンテッドエレクトロニクスの研究が始まったのは、今から10年ほど前。当初は現象優先で、良い性能を示すものがあればそれを起用していた。5年 ほど前から、やはり性能を出すものと出さないものの違い、つまり性能の起源をきちんと理解していかなければ、という人たちが現れ始めた。熊井教授は初期か ら、機能発現の起源をミクロな構造からクリアにしようと取り組んできた一人。今では実験手法、解析を教えながら、産総研の研究員と一緒にPFで実験をして いる。

左:熊井玲児教授(KEK物構研)、右:峯廻洋美研究員(産総研)
実験を行ったフォトンファクトリーBL-8B内部。右下は試料部分の拡大。シリコン基板上に成膜された薄膜がある。

※1 Nat. Commun. 2012, 3 , 1308 doi: 10.1038/ncomms2322
※2 J. Am. Chem. Soc., 2007, 129 (43) doi: 10.1021/ja075406r
※3 J. Am. Chem. Soc., 2008, 130 (40) doi: 10.1021/ja8032235
※4 Adv. Mater. 2015, 27, 41 doi: 10.1002/adma.201502357

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関連サイト

物質構造科学研究所
放射光科学研究施設フォトンファクトリー
産業総合技術研究所 フレキシブルエレクトロニクス研究センター

(2016.4.13 更新)