2010年4月15日
目標は「性能と強度で世界一のミュオンビームを出す!ということです」、と語っていた三宅康博(みやけ やすひろ)物質構造科学研究所教授。2008年9月26日に初めてビームが出てから約1年半後、ついにその目標が実現されました。2009年12月10日、大強度陽子加速器施設(J-PARC)の物質・生命科学実験施設(MLF)にて1パルスあたり約18万個のミュオンの発生を確認しました。これは、これまでの最高レベルであった英国ミュオン施設を上回る結果であり、新たなフロンティアへの幕開けとなるビームとなりました。現在の運用は設計性能の8分の1のレベルで行われており、今後の記録更新に大いに期待がかかります。
肉眼で見ることができないため、全く実感はありませんが、実は、私たちは毎日たくさんのミュオンに触れています。手のひらを空に向けて広げてみてください。すると、1秒に1個の割合で宇宙線として地球に降り注いでいるミュオンが手のひらを通り抜けています。このように、普段は誰もその存在に気付かない「ありふれた粒子」にも思えるミュオン。しかし、ミュオンはとても透過力が高く、物質の性質を原子レベルで調べるためにとても有効な粒子です。ミュオンを使えば、今まで見えなかったものが見え、分からなかった原理を明らかにできるかも知れません。ミュオン施設「MUSE」は、強度の高い高品質なミュオンビームを使って、新たなサイエンスを切り拓くために建設されました。
ミュオンは、電子の仲間で素粒子の1種。ミュー粒子とも呼ばれています。正又は負の電荷をもつミュオンが存在し、負の電荷をもつミュオンは多くの点で電子と同じ性質を持っていますが、質量は電子のおよそ200倍、と異なります。電子は非常に安定した粒子ですが、ミュオンはとても不安定な粒子で、その 寿命は2.2マイクロ秒。わずか100万分の2秒で崩壊してしまうので、実験でミュオンを使うためには人工的につくり出す必要があるのです。また、正の電荷をもつミュオンは、物質中で陽子と似た振る舞いします。ちなみに、陽子と比べると、ミュオンの質量は9分の1となります。
では、ミュオンを使うとどのようなことが調べられるのでしょうか? MUSEで作られるミュオンは、宇宙線のミュオンに比べて非常に強度が高い(=ミュオンの数が多い)ので、精密に物質の性質を調べることができます。例えば、正の電荷をもつミュオンは「原子サイズの方位磁石」として働き、物質の微小な磁場に反応するので、その物質の機能を解明する事ができます。また重さが9分の1の陽子として振る舞い、電子1つとペアになってミュオニウムという水素の同位体のような人工原子をつくります。そして、100万分の2秒で崩壊して陽電子を放出することから物質中の水素の状態を極めて正確に観測できます。
一方、負の電荷をもつミュオンは200倍重たい電子として振る舞い、原子核のすぐそばの軌道を周回します。その時、非常に高いエネルギーの特性X線を出します。通常、原子の発するX線はエネルギーが低く感知することが難しいのですが、この特性X線は物質の数センチ奥深くで発生しても外部から検出できるので、深さ方向に元素分布を調べることができるのです。以前、天保小判の組成を非破壊で調べたことを紹介したように、ミュオンの強度が上がったことによって、考古学の分野にも光をあてることができるでしょう。
MUSEの建設は2003年から続く大きなプロジェクトでした。ミュオンを効率よく発生させるには、すさまじいエネルギーで加速された陽子が必要です。しかしエネルギーが高いため、コントロールも難しく、さらに陽子が通るトンネルは高レベルの放射能状態になってしまいます。そのため、すべての作業をリモートコントロールできるように設計する必要がありました。安全で、かつ安定した世界最高性能なビームラインを作るためには、例えば、1つの電磁石が40~60トンもある巨大なパーツを0.1ミリメートルの精度で配置するなど、開発から設計、建設にいたる各段階に、クリアすべき様々なチャレンジがありました。しかも、これらを実現したのは、10人に満たない少人数の研究開発グループでした。
2008年に初めてビームを出して以来、徐々にパワーアップし、低速・高速ミュオンビームラインで世界最高強度を記録しました。しかし、世界最高記録の達成は目的でもゴールでもありません。新たな材料を生み出す舞台として、幕が上がったばかりのMUSE。ナノメートルスケールの現象を研究するめの新たな舞台として、このミュオンビームを冷却して作る「超低速ミュオン」というプロジェクトも始まっています。これから、どんなサイエンスが生み出されるのか。まだ誰も見たことのない世界がその先に広がっています。