【KEKエッセイ #18】愛しのアダ ~ビーム衝突型加速器の使徒との出会い~

 

一瞬の出来事が稲妻のように時を貫き、人生の意味を照らし出す‥。34年前、つくばでイタリア生まれの「アダ」と出会ったのは、私の人生におけるそんな出来事だったのかもしれません。(加速器研究施設 鎌田進)

国際科学技術博覧会会場のアダ
鎌田進

1985年、当時、筑波研究学園都市と呼ばれた今のつくば市で、国際科学技術博覧会(通称・筑波万博)が開かれました。全国からやってきた研究者たちがここに住み始めて約15年が経過し、茨城県初の高速道路・常磐自動車道が首都高速にやっと接続したものの、新しい鉄道の建設は噂ばかりが先行し、6町村に分散した筑波研究学園都市の姿からは現在のつくば市はまだ想像もできないころでした。

当時KEKは、日本初のビーム衝突型加速器計画「トリスタン」の稼働を翌年に控え、組織を挙げてその完成に向けて邁進していました。トリスタンは、円周3kmのトンネルを地下10数メートルに設置し、ここにビームの通り道となる真空容器を配管した素粒子物理学の研究施設です。蓄積リング方式のビーム衝突型加速器トリスタンでは、一本の環状の真空容器に、二つずつの塊になった電子と陽電子のビームを互いに逆方向に走らせ、周上の4か所に設置した測定器の中心で正面衝突させます。この真空容器の周囲に、ビームの軌道を曲げたりサイズを絞ったりする電磁石や、ビームにエネルギーを与える高周波空洞、これらに電力を供給する電源など、必要なありとあらゆる装備を設置・据付する作業が追い込みを迎えていました。

基本設計段階からこの計画に関わっていた私は、ビーム運転の手順を想定したソフトウエアの開発やコントロールシステムへの組み込み作業に、張り詰めた気分で向き合っていました。そんな忙しい日々の合間に、ふらっと立ち寄った筑波万博のイタリア館で、アダと出会ったのです。混雑するパビリオンを避けて入った人気の少ないイタリア館の一遇で、ややうらぶれた風情で佇むアダを、その人と気づいた時のドキドキ感は、今思い返しても、鮮やかに甦ってきます。

アダと言っても、ソフィア・ローレンやモニカ・ベルーチのような美しいイタリア人女性ではありません。直径1.3mの蓄積リング「Anello di Accumulazione」(愛称:AdA)です。でも、一時期の世界の若き物理学徒たちにとって、アダはまさに研究者人生を左右するカリスマ的存在だったのです。「なぁーんだ、人間じゃなくて加速器か」とがっかりされましたか。では、アダについて紹介しましょう。

1961年、アダはローマ南郊にあるフラスカッティ国立研究所で生まれました。ここでは、ホロコーストを生き抜いたウィーン出身の物理研究者、ブルーノ・トゥシェックが働いていました。前年3月の所内セミナーで、彼は「一つのリングを使って粒子と反粒子のビームを同時に逆方向に加速できる。そんな粒子と反粒子の正面衝突によって、ビームのエネルギーを100%有効に使った新粒子探索が実現できる」という提案をしました。研究所はこの提案を支持し、トゥシェックは小さなグループを率いて世界初の蓄積リング方式の電子・陽電子ビーム衝突型加速器、アダを誕生させました。完成はセミナーから約1年後のことです。

フラスカッティには陽電子供給に適した加速器がなかったため、アダは誕生から1年後、電子・陽電子ビーム衝突の本格的研究のためパリ郊外オルセーのLAL研究所(Laboratoire de l’Accélérateur Linéaire)に運ばれ、2年間に渡る伊仏共同の研究が行われました。昼夜を分かたず週末も研究に没頭したオルセーの若い物理学徒たちは、アダをオルガ(OLGA, Orsay Linear Great Accelerator)と呼び、まるで妻や恋人のように接したと言われています。オルセーでの実験により、期待通り電子と陽電子の衝突が確認されました。世界で初めて、ビーム衝突型加速器の原理が実験で証明されたのです。さらに、特有のビーム寿命短縮現象が見つかり、ビームサイズとビーム内粒子散乱の効果として明快に説明されました。今日、放射光源を含むあらゆる蓄積リングに共通な現象として知られる「トゥシェック効果」の発見です。

アダが達成した加速器研究の成果は、1970年代以降の高エネルギー物理学を推進する最大の原動力となりました。アダで学んだ若い研究者たちは、その後、世界中に展開する蓄積リング方式のビーム衝突型加速器や放射光源加速器の設計・建設・ビーム運転で指導的役割を担いました。多くの若い物理学徒が彼女からインスピレーションを受け、加速器研究者や高エネルギー物理研究者として巣立っていきました。アダの後裔の加速器のおかげで獲得できたノーベル賞の数は片手では数え切れません。

2013年、アダにおける電子・陽電子衝突の確認から50年後、フラスカッティ国立研究所はアダ生誕の地としてヨーロッパ物理学会の史跡に認定されました。今、研究所構内に設置されたアダは訪れる研究者を優しく迎えてくれます。そして、フラスカッティ国立研究所はアダの美麗なコピーを作りオルセーのLAL研究所に送り出しました。

それにしても、筑波万博の会場でアダと出会えたことは、今でも不思議に思います。あの時、誰が何を目的にアダを筑波に送り出したのでしょう。万博会場を訪れた多くの人の中に、アダを知る人が一体どれだけいたというのでしょう。実は内心、あの時アダは彼女自身の意思でビーム衝突型加速器の使徒として、はるばるイタリアから、彼女の後裔であるトリスタン加速器の研究に没頭する私に、わざわざ会いに来てくれたと信じているのです。

*アダと第二次世界大戦後の欧州物理学の歩みを紹介した動画は関連サイト(ADA - STORAGE RING)にあるURLから見られます。

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