【KEKエッセイ #19】相転移~景色が突然変わるとき

 

水は1気圧のもとで温度を0℃に下げれば氷となり、100℃に上げれば水蒸気となります。このような固体・液体・気体の状態を「物質の三態」といい、多くの物質で、この三態間の変化「相転移」の様子を観測できます。そこでは秩序を創ろうとする力と壊そうとする力がせめぎ合い、ダイナミックでロマンチックなドラマが展開されます。物質の中で新しい秩序相が出現する時、目の前の景色が一変します。私はそんな不思議さに魅せられて、ずっと相転移の謎を追い続けてきました。(物質構造科学研究所 村上洋一)

高温でランダムな酸素分子のスピン(スピンの違いは酸素分子の色の違いで表現)は、低温になると一斉に揃いだす。
松井龍也

動物行動学者のコンラート・ローレンツ博士は、ハイイロガンの卵を孵化してガチョウに育てさせたところ、生まれたハイイロガンはガチョウを本当の親だと思い込んで追いかけました。さらに、博士の目の前で人工孵化させたハイイロガンは、博士を親だと思って博士について回ったそうです。これを動物行動学の言葉で「刷り込み」といいます。私の相転移への興味も、学生時代に刷り込まれてしまったのかもしれません。私は大学院で低次元磁性体の相転移を研究しました。その後、さまざまな物質系を対象として研究しましたが、いつの間にか、それらの系が示す相転移の研究にたどり着いてしまうのです。

それでは、相転移のいったい何がそんなに面白かったのでしょうか。それは30年以上も前になりますが、通勤電車の中で居眠りをしていて見た夢の中の映像を思い出します。夢から覚めた瞬間、「相転移の研究って、すごく面白いな」と感じました。それは相転移の起こる瞬間の景色でした。

大学に職を得て初めて取り組んだのが、酸素分子をグラファイト(黒鉛)の上に吸着させて作った、酸素単分子膜の磁気相転移の研究です。酸素はスピン(小さな磁石のような性質のことですが、スピンを知らない人は「私にスピンをわからせて」をググってみてください)を持つ珍しい分子で、グラファイト上に吸着させると卵形の酸素分子は寄り集まり、立ち上がって三角格子を作ります。並んだ酸素分子間ではスピンを揃えようとする力が働きますが、熱的な揺らぎがスピンをバラバラにしてしまいます。こんなに単純な系ですが、実験は困難を極め、「今日もうまくいかなかった」と肩を落としての朝帰りが続きました。結局、この研究を7年以上も続けることになるのですが、その切っ掛けが33年前に電車の中で見た夢でした。

見渡す限りの草原で、手を繋いで綺麗に並んだ酸素分子たち。全く同じ顔をした彼らは「こっちにスピンの向きを揃えよう」「いや逆だ」などと、どちらの向きに揃おうかと、けたたましい声で相談しています。私は「これじゃとてもまとまらないな」と悲しくなりましたが、暫く見ていると少しずつ酸素分子のスピンが揃ってくるではないですか。揃えば揃うほど、相談する声は大きくなり、ついにその咆哮に我慢できなくなったところで目が覚めました。暫く呆然としていましたが、さて夢の中の酸素分子達はどのくらいの広さに拡がっていたのだろうかと思い、暗算してみて驚きました。酸素分子が人間の大きさになったと仮定すると、実験に使う数ミリ角のグラファイト片は地球の表面積に相当します。つまり、人間の形をした酸素分子が地球全体を埋め尽くしているのです。実際には沢山のグラファイト片を沢山重ねて実験するので、100万個ぐらいの地球の表面が酸素分子人間でびっしり埋められている計算となります。そこで磁気相転移が起こると、気が遠くなるほどの数の酸素分子たちが、お隣同士の相談だけで、一斉に同じ方向に揃うのです。しかも1人の例外もなく。そんなことが本当に可能なのでしょうか。

実験で非常に多数の酸素分子を扱っていることは承知していましたが、酸素分子人間を想像したことは初めてでした。日々の実験で、地球100万個の表面に張り付いた酸素分子人間を観測していると思うと、「懐手にして宇宙見物」(寺田寅彦先生の言葉)しているようで、大変愉快な気持ちになりました。彼らの言葉をどうしたら理解できるのか、実験方法を考えることが楽しくて仕方ありませんでした。大学の研究室で様々な実験を試みた後、KEKで決定的な実験を行いました。放射光(指向性が強い強力な光)や中性子(自らスピンを持つ粒子)、ミュオン(電子より200倍重い電子の仲間)というスパイを酸素分子たちの中に送り込むことで、いよいよ相談がまとまる瞬間の”機密情報”を知ることができたのです。

放射光は酸素分子の並び方を知るのに最適です。酸素分子が作る三角格子が、磁気相転移に伴ってわずかに歪む様子を見ることができます。中性子は磁気秩序に敏感で、酸素のスピンがどの範囲で揃っているのかを教えてくれます。ミュオンは酸素スピンからの局所的な磁場を感じる取ります。このように、放射光・中性子・ミュオンを相補的に利用すると、結晶構造と磁気構造が詳しく分かり、磁気相転移の正体に迫ることができます。

1980年代後半は、銅酸化物高温超伝導体研究が世界的ブームとなり、多くの研究者が超伝導研究に参入していった時代でした。その嵐の中で、地味ではあるけれど大変面白い酸素単分子膜の磁気相転移の研究を続けることができた環境に、今でも感謝しています。この研究で放射光・中性子・ミュオンを湯水のごとく使わせていただいた経験は、その後の私の研究に大きな影響を与えました。

あの夢を思い起こす度に、相転移は本当に不思議だと思います。この不思議さが私の研究の原点です。その後、いろいろな相転移に出会うことができましたが、その話はまた別の機会にさせていただければと思います。

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