1.科学とわたしとの出会い
僕はKEKの大型ハドロン計画推進室で室長を務めている永宮正治です。
僕が初めて科学らしい科学と出会ったのは、中学生の時でした。
渡辺慧先生という、もうお亡くなりになりましたが、長らくハワイ大学の先生をされていた方が書かれた科学の本があって、夕焼けがなぜ赤いのか、とかいったことが易しく解説されている本を読みました。読んでいるうちに、科学って面白いもんだなと思いました。さらに本格的な本では、ロシアの科学者であるガモフが「不思議の国のトンプキンス」といった科学啓蒙本を何冊も書いていて、その数冊を読んだのがより大きなきっかけであったと思います。光はまっすぐ走ると思っていたのに、その本を読むと宇宙をぐるりと一周して戻ってくると書いてあります。だから、宇宙が小さければ、ぐるっと回ってきた光を媒介にして自分の後だって見えるんだ、といった話が書いてありました。中学生の僕には何がなんだか良く分かりませんでしたが、とても面白いと思いました。
もう少し後のことでは、僕は大学は東大だったんですが、大学院は阪大を選びました。大学院に入って2つのことがありました。1つは杉本先生という指導教官の方針でもあったのですが、実験は全て1から独りでやり抜く。実験に必要な道具は、ビームパイプから測定回路まで、みんな自分でデザインをして手作りで作る、といった訓練を受けたことです。回路も自分で全て設計してハンダ付けをして組み上げる。真空系は自分でOリングの溝を旋盤で加工して組み上げる、といった作業です。この訓練は本当に貴重だったと思いますし、僕のその後の人生の指針ともなったと思います。もう1つは、東大での授業は駆け足授業で、僕のような劣等生にはどうも消化不良のまま残されていました。学生時代に分からなかったことを徹底的に分かろうと、阪大大学院に入ったあと、力学や電磁気学から始まって量子力学、相対論、等、物理学をもう一度はじめから勉強しなおしました。この勉強は主に電車のなかでやりましたが、自分で勝手に教科書を選んだこともあり、このとき初めて本当の物理に出会った感じがしました。さらに、この勉強はその後大いに役立ったと思っています。

2.感動の瞬間
僕はこれまでジプシーのように多くの研究機関を亘り歩いてきました。特に、20歳代の後半から9年近くカリフォルニアのバークレイに滞在し、さらに、40歳を過ぎた頃から十年余り、ニューヨークのコロンビア大学に居りました。外国での研究生活が長かったためか、研究上で感動したのは外国における時の方が多かったと思います。
最も感動した瞬間を1つだけ取り上げろというと、それはやっぱりバークレイで自分の作った実験装置を使って初めて実験データを取った時です。ベバラックと呼ばれる高エネルギー重イオンビーム加速器が世界中でバークレイにだけに存在した時、ごく初期の実験を行いました。ちょうどその2年前ぐらいに、実験のアイデアを練って、それを委員会に提出して認めてもらいました。しかし、当時の僕には共同実験者もいなかったし、お金もありませんでした。さいわい、グループの頭のチェンバレン先生、この先生はノーベル賞を受賞された方ですが、この先生がとっても良い方で、いつも暖かく僕を援助して下さいました。それでも、共同実験者はいなかったので、毎日毎夜、自分で今思うと感心するほど良く働き、かなり大がかりの実験装置を独りで作り上げました。その間に東大理学部の助手も退職し、まさに背水の陣で実験にとりくみました。やっと実験装置が出来上がってその装置でデータを取り始める前夜、僕は徹夜で一人で実験をしていました。明け方に疲れが溜まったのか、実験室の前でフラッと気を失って倒れてしまいました。倒れた時に「やっとここまで漕ぎ着けた。データは明日だ。」と思いながら倒れたのを、今でも鮮明に覚えています。2年間、ただがむしゃらに働いて作り上げた実験装置でデータを取る。これは実験物理学にしか味わえない感動だと思います。その数カ月後に、このデータを携えて2つの大きな国際会議で喋った時も、この会議は私費で行ったのですが、大きな喜びでした。
それ以外にも多くの感動の瞬間はありましたが、ここに述べたことはやっぱり一番心に残っています。

3.現在目指していること
現在目ざしていることは、僕のポジションの肩書き通り、大型ハドロン計画という、50GeVシンクロトロンを中心施設にしたハドロン加速器施設を作ることです。具体的には、中性子中間子等の大強度ビームを用いた物質・生命科学、さらには高エネルギーハドロンビームを用いた新しい原子核・素粒子科学を進めることです。ハドロンビームを用いた総合科学センターを構築する試みといって良いでしょう。
しかし、僕にはもう一つの夢があります。もちろん、このようなビームを出す大型ハドロン施設は、完成すれば、世界的に見ても非常にユニークな施設となると思います。世界のサイエンスにおけるフロンティアセンターとなるでしょう。しかし、このような施設を日本人だけが使うとすると、僕は大いに問題があると思っています。21世紀の日本は、世界の中で、ある限られた領域だけでも良いからリーダーシップを担って、その分野においては世界に開かれたセンターを構築するべきだと思います。僕は約20年間アメリカに居りましたが、別にアメリカが好きで居たわけではありません。そこにしか僕の実験を進めるための加速器がなかったからです。僕のような立場で留学された方は沢山居られると思います。そこで21世紀はどうか?僕は、日本がかってのアメリカやヨーロッパのように、外国から研究者を招き、サイエンスのセンターを作るという役目を果たす時期に来ていると思っています。大型ハドロン計画を通じて、このような国際的な研究センターを作ることが僕の今の夢です。

4.科学者を目指す若い世代の人へ
僕の若い頃と違って、日本の国際的な地位は比較にならない程高くなっています。それに伴って、今の若い科学者は、昔の我々の若い時代と違って、西欧人と互角になって議論できるほど成長してきました。自分の主張を堂々と言える時代になってきたともいえます。このような傾向は本当にいいことで、これからは日本人科学者が多くの分野でリーダーシップを発揮できると思います。おじけず、しかしおごることなく、自信をもって自分の科学を育てていって欲しい。




素粒子原子核研究所 藤井 恵介博士
大強度陽子加速器計画推進部 J-PARCセンター長 永宮 正治博士
物質構造科学研究所 五十嵐 教之博士
元機構評議員会会長 江崎玲於奈博士

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