【KEKエッセイ #11】KEKネコ事情~うちの しろ 知りませんか~

 

みんなうすうす気づいてはいた。しかしその日はあまりにもさりげなくやってきて、日が経つごとに私たちを苦しめた。(物質構造科学研究所 深堀 協子)

私がその存在を知ったのは、KEKに着任した日のことだった。
「物構研にはネコグッズがあるよ」と結晶構造と猫がモチーフのクリアファイルを手渡された。
理工系の研究所で猫と言えば…「シュレディンガーの猫?」
「違うよ、これはネコ先生。実在する猫だよ」
その猫の名は しろ。フォトンファクトリー(PF)の看板猫で、ネコ先生とも呼ばれていた。先生の風格があるから、らしい。しろ と呼ぶのは物質構造科学研究所(物構研)の人々で、加速器研究施設ではギャオと呼ばれている。歳は16歳かそれ以上だという。

KEKに棲む猫たちは、地域猫と言えるだろう。餌をねだっては笑顔を誘うペットでもあり、施設に他の小動物を寄せ付けない門番のような役目も果たす。例えば、ケーブルをかじる動物などは猫がいると寄り付かない。職員たちは絶妙な距離を保って世話をする。日常的に世話をしている人たちは猫たちの「パパ」「ママ」と呼ばれている。
しろ は、パパの足音を聞き分けていたようだ。でもパパだけに懐いているわけでもなかった。みんなが撫でたり、餌をやったり、写真を撮ったりした。PFの職員やユーザーはもちろん、見学に来た学生たちが囲んでも、一般公開で訪れた子供たちが触っても普段通りに振る舞う人気者だった。
私はそれまで猫の世話をしたことがなかったから、おっかなびっくりだったのだけれど、猫の生態に詳しいママに教えてもらいながら しろ に近づいてみた。

しろ はPFの建物の、職員がよく使う出入り口の近くにいることが多かった。PFに行くことがあると、無意識に しろ を探すようになる。しろ がいたら、少しの間一緒に過ごす。猫の餌売り場に立ち寄ってみたりして、いつしか私は しろ が好きになっていた。初恋の猫とでも言おうか、私にとってそんな猫は初めてだった。真っ白でまっすぐなしっぽと、澄んだ蒼い目をしていた。

撮影:田中 宏和
しろ が私のことを「おやつをくれる人」と認識するのにそれほど時間はかからなかった。
「あ、いた。おやつあるよ」と近づいていくと、食事場所まで誘導される。振り返ることなく自転車の下をくぐって最短距離を行くのが可笑しかった。しろ の食事場所とお皿は決まっていて、そこ以外で食べるのを見たことがない。

ある日、私の前を歩いていたので、「しーろちゃん」と声をかけた。いつもと様子が違う。ずんずん歩いて行ってしまう。後ろ姿に向かってもう一度呼んでみた。すると、しろ がおもむろに振り返る。その口には、ネズミ! 道理で返事ができないはずだ。
パパの一人が、「しろ が狩をしたあとは、片付けが大変なんだよ」と言っていたっけ。私は心の中でごめんなさい!と言いながら、このときだけは後ずさりした。

しろ は居心地の良い場所を求めて駐車場にいることも多かった。でも、車に轢かれるようなヘマは決してしないのも、みんなよく知っていた。
暑い夏の日、パパが心配そうに知らせてくれた。
「しろ の様子がおかしいんだよ。けがしてるみたいなんだけど、車の下から出てこない」
しかし、いると聞いた場所を探しても姿が見えない。
後日、別のパパが病院に連れて行ったあと、自宅に連れ帰り世話をしてくれていることが分かった。
「拉致、監禁中」
餌場の近くに、心配するみんなのための張り紙があり、しろ の写真が添えてあった。包帯を巻いてはいたが、洗濯機のフタに乗ってくつろいでいる様子。一同胸をなでおろした。

しろ は一週間後にはPFに復帰した。しかし、暑い屋外はことさら堪えたのだろう、寝てばかりいた。おやつも興味はないらしく、日陰に寝そべっている。
荷物の配達に来た人が慌てて近寄ってきて尋ねる。
「なにこの猫、死んでるの?」
「いえ、寝てるだけです」
「あら、よかった~。この暑さじゃねぇ」
ママによれば、猫は歳をとると寝て過ごすことが多くなるのだという。

その秋のビームタイム中、歩いてPFに向かうユーザーさんたちに、猫が一匹ついてくるのが見えた。いつもは別の場所にいる筋肉質の若いオス猫だった。
「あの猫どうしたんですか?」
「なんだか勝手についてきたんですよ」
もちろんPFには しろ がいる。
後日、同じユーザーさんから、その猫が しろ にこてんぱんにやられて帰れなくなっていたから自転車のかごに乗せて連れ戻ったと聞いた。おじいちゃんだけど、若いものには負けていなかった。

つくばにしては雪がたくさん積もった冬が終わり、春がやってきた。ある日、PFで、いつものように しろ にカメラを向けた。そのときの写真には、なんだか元気がない しろ が写っている。
数日後、しろ がいないことが話題になった。
「水曜日以来見てないんだよ」
しろ の捜索隊も出た。しかし、待てど暮らせど、しろ が帰って来たという知らせはない。
ママが言う。
「山に行ったのかなぁ。でも1年経ってから帰ってくる猫もいるから。若い猫ならね」
私は しろ は若くないと知りつつ、その言葉を頼りに待つことにした。またけがをしてどこかの家で保護されているのかも知れない。「うちの しろ 知りませんか?」と尋ね歩きたかったけれど、どこを探したらいいのかも、分からなかった。

そして、1年が過ぎた。今でも しろ が恋しい気持ちは変わらない。でも、ようやく、しろ はもう帰ってこないんだ、と理解できるようになった気がする。
あのとき追い払われた猫は立派な大人になって、今やPFを根城にしている。先代のネコ先生に比べればまだ青いところがあるが、持ち前の人懐っこさで、PFのみんなに可愛がられている。彼が、人に多少ちょっかいを出されても噛まないようになったなら、二代目ネコ先生を襲名する可能性もあるかも知れない。

いまKEKには私が知る限り4匹の猫がいる。暖かくなって猫が活発に行動する時期、4匹に毎日餌をやっているパパが一計を案じ、猫の首に小型GPSロガーを付けて行動範囲を調べ始めた。猫たちは、主に夜間、KEKの敷地内を巡回したり外に出たりしてかなりの距離を歩き、朝にそれぞれの餌場に戻ってくることが分かった。ある猫は、KEKの東を走る片側2車線の国道を渡っていることも判明した。

学園東大通りを走るドライバーさんにお願いします。
KEK周辺で猫が道路を横断するかもしれません。猫は信号が分かりません。どうか気をつけて運転してください。


物構研 KEK一般公開2019 特設サイト:
https://www2.kek.jp/imss/news/2019/topics/openhouse/

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