【KEKエッセイ #15】原爆投下。チャーチルは、ママの実家を頼った?

 

8月は終戦の月。今年も原爆投下に至ったいきさつがいろいろ語られました。政治家たちのみならず、物理学者たちが厳しい選択を迫られた時代でもありました。それを振り返りつつ、ごく個人的な独自の見解(「妄想」とも言いますが)など、つづってみましょうか。(監事 北村節子)

360度カメラで撮影したKEKの青空
KEK/Shota Takahashi

原爆の使用にもっとも熱心だったのは、時の英国首相、チャーチルだった、ということはすでによく知られています。ヒトラー率いるドイツは開戦当初は破竹の勢い。フランスは占領され、1939年からはロンドンも空襲にさらされます。連合国・枢軸国とも総力戦となるなか、双方が決定的な武器を渇望したのは必然でしょう。事実、ドイツも原爆研究を始めていました。

当初、研究をリードしていたのは英国でした。中核を担ったのはユダヤ人迫害を逃れてドイツから亡命してきた物理学者たちです。研究の傍ら、政治的にも相当、連合国側に肩入れしたようです。そうですよね。ドイツに勝たれてはたまらない。チャーチルは1940年、国内に「チューブ・アロイーズ計画」を立ち上げます。ところが空襲にさらされ、ドイツ軍の侵攻の恐れもあるという英国に、製造工場を運営する余裕はすでにない。そこでチャーチルは米国に原爆共同開発を呼びかけました。無傷の米国には工業力も資金もある。そこにユダヤ系を含めた研究員を送り込もうという戦略です。

はじめ、欧州に不介入の姿勢を見せていたルーズベルトも、原爆小型化の可能性に乗り気になります。そして1942年、有名なマンハッタン計画が始動するのですが、これはアイディアと頭脳は英国が、資金と技術は米国が担当する共同事業でした。その際もチャーチルはしっかりしていました。「平等に研究し、成果も平等に」と、ルーズベルトとの秘密会議で約束したのです。

ところが、研究が進むにつれて米国も「この威力は独占したい」と考え始め、その旨をチャーチルに通告します。チャーチルは驚きながらもすかさず「では、イギリスも独自に開発しよう」とブラフをかけます。このあたり、ポーカー好きだった本領発揮ですかね。それを聞いたルーズベルトは「終戦後、英国を敵に回すのは得策ではない」と考えなおし、再び情報交換をするのですが、その際のチャーチルがまたしっかりしていて「互いに相手に対して原爆を使わない」「互いの合意なしでは第三国に使わない」等を確認します。こんないきさつで、米国西部のロスアラモスでの「極秘核開発」は研究者とその家族6000人を隔離するような形で進み…と、この先はよく知られた原爆投下への道です。

この間、政治の最前線に立つことになった物理学者の一人が、あのニールズ・ボーアでした。英米の共同作戦が進んでいるとき、連合国側で参戦していたソ連もまた、開発に着手していました。これを知ったチャーチルは「戦後の指導権を取られてはならない」と警戒しますが、ルーズベルトは「戦後平和のためにはソ連とも足並みをそろえねば」と考えます。そこで、「原爆開発をソ連に明かして情報交換し、戦後は核の国際管理をしよう」とのチャーチル宛てメッセージをボーアに託したのです。

ボーアはチャーチルと面談しました。しかしその会談は30分で打ち切り。ケンモホロロってやつですね。なにしろその直前にチャーチルは、ソ連がボーアに接触していたことを知ったばかりでしたから。ボーアはソ連への協力は断っていたし、接触があったことも打ち明けたのですが、チャーチルの警戒は解けなかったのです。ボーアのミッションは不発に終わりました。

同時期、もう一人、政治に深く介入した物理学者がいました。ロスアラモスに参加していた若い英国の研究者、クラウス・フックスです。ドイツ出身で英国に亡命していました。その彼が原爆研究の内容をひそかにソ連に漏らし続けていたのです。逆007みたいな話です。ドイツ出身でユダヤ系の彼は、ソ連にヒットラーを倒してほしかったし、将来、単独の陣営が核を独占することは危ない、と考えていたのです。後日、フックスはスパイ活動を自白し、英国籍をはく奪されて服役した後、東ドイツに移住、ソ連にも失望し、結局そのまま亡くなりました。あのアインシュタインも、1939年、開戦の年、早々とルーズベルト宛てに「原爆開発を」と手紙で訴えています。そして戦後、それを後悔しています。原爆開発は、関連した物理学者たちにもさまざまな葛藤を強いた事業だったのですね。

さてここで、冒頭に記した私の「独自の見解」(ぶっちぎりの妄想?)を。がけっぷちに追いやられたチャーチルが、起死回生の原爆開発をアメリカに持ち掛けたのはなぜか? もちろん、アングロサクソンの国同士だし、上述したように、アメリカの工業力、資金力をあてにしたのでしょうが、もう一つ、大事な視点は「チャーチルのママは、アメリカ人だったのです!」(このフレーズのおかしさが分かる人は、たぶん昭和30年以前の生まれですね)

19世紀中ごろ、米国経済は大いに発展し、ミリオネア(億万長者)と言われる人々が出現します。大邸宅に使用人、豪華な社交界。ところが彼らの多くは自力で成功した、まあ、当時の感覚で言えば「成り上がり者」です。伝統が欲しい。家柄を飾りたい。一方で英国の貴族社会は、種々の理由から気息奄々の状態でした。お屋敷や領地を維持し、メンツを保つには膨大なお金がいるのです。既存の権利も行使しにくい世の中になっていました。そこで流行ったのが、「米国金持ち娘」と「英国貧乏貴族」の結婚でした。花嫁側は「家柄」(うまくいけば爵位)、花婿側は「妻の莫大な持参金」が手に入るわけです。

チャーチルはそんなカップルの間に生まれました。パパは山っ気のある没落貴族の三男で、はったりで国会議員になるもあまりさえず、最後は性病で亡くなったといいます。ママは大金持ちで恋多い人。夫亡きあと2回再婚していますが、相手はいずれも倅より若い男性でした。その間も愛人数知れず…って、日本ではなかなか考えられないシチュエーションです。パパはあまりあてにならず、エネルギッシュなママにはお金がある…となると、「困ったらママの実家に…」という心理が働いても無理はないなあ、というのが私の「超深読み」。彼は生粋の英国人と思われていますが、実は半分、アメリカの血が流れていたというわけ。

終戦前、連合国が戦後処理を話しあったポツダム会議では、日本への原爆投下に「予告すべきだ」という説もあったなか、「予告なしで行使すべきだ」と主張したのはチャーチルでした。長崎に落とされた原爆の「愛称」は「ファットマン」(ふとっちょ)ですが、これはチャーチルのことだ、という説があります。

戦争が終わって74年。「戦争を知らない世代」がほとんどです。せっかくそういう境遇なんだから、冷静にニュートラルに、戦争の歴史を見つめたいものですね。

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