H.Tada

所要時間:約12分

図1. ATLAS検出器外側にあるミューオン検出器用の集積回路の試験を行う戸本誠 教授(写真右)と名古屋大学大学院 理学系研究科の山田敏大さん(写真左)。 /<i class='fa fa-copyright' aria-hidden='true'></i> KEK IPNS

図1. ATLAS検出器外側にあるミューオン検出器用の集積回路の試験を行う戸本誠 教授(写真右)と名古屋大学大学院 理学系研究科の山田敏大さん(写真左)。 / KEK IPNS

スイスのジュネーブ近郊にある欧州合同原子核研究機関(CERN)では、世界最大(周長27 km)の粒子加速器LHCを用いて世界最高エネルギーの陽子と陽子を衝突させ誕生直後の宇宙を再現し、その頃の宇宙を支配していた素粒子やその現象を研究する素粒子実験を行っています。LHCの衝突点のひとつに設置されているATLAS検出器を用いたATLAS実験には、KEKを含めた国内外合わせて38か国、約180の研究機関からの約3000人の研究者が参加しています。ATLAS実験では2012年に、物質に質量を与える素粒子である「ヒッグス粒子」(注1)を発見しました。その後もATLAS実験では、ヒッグス粒子の特性を徹底的に検証するとともに、新粒子の探索も行っています。

ATLAS検出器は高さ22m、全長44m、重さ7000トンと巨大な粒子検出器です。検出器の中心が陽子・陽子の衝突点になっており、衝突点の周囲にはバウムクーヘンのように層になって様々な粒子を検出する装置が設置されています。このように中心を検出器で覆うことで、衝突によりあらゆる方向に飛ぶ様々な種類の粒子をくまなく捉えることが可能になるのです。検出器は中心から順に、飛跡検出器、電磁カロリメータ(注2)、ハドロンカロリメータ、そして一番外側にミューオン(注3)検出器が備え付けられています。

図2. ATLAS検出器の構造。赤色の部分はATLAS日本グループが主に開発を担当している装置です。/ ATLAS Experiment © 2020 CERN

図2. ATLAS検出器の構造。赤色の部分はATLAS日本グループが主に開発を担当している装置です。/ ATLAS Experiment © 2020 CERN

ATLAS検出器の開発は参加国で分担されており、その中でも日本は主にシンギャップチェンバー(TGC、Thin Gap Chamberの略; ミューオンを検出するセンサーの役割を果たす装置)と飛跡検出器を担当しています。KEKは共同利用機関として、これらの検出器の開発、建設、運転において、ATLAS日本グループの取りまとめ役を担っています。

LHC加速器は2015年から4年かけて重心系エネルギー13TeVでの陽子・陽子衝突(第二期運転)が行われていましたが、2018年12月に予定通り運転が終了しました。現在は2022年から始まる第三期運転に向けた加速器や検出器の整備と改良と、2027年から予定されているルミノシティ(加速器で粒子同士が毎秒あたり衝突する頻度を表す量)を大幅に増強したLHC高輝度化運転に向けた加速器と検出器の開発を進めています。ATLASグループでも、第二期運転までに収集した全データの物理解析を進めつつ、第三期運転の準備とLHC高輝度化運転に向けた各種検出器の開発を進めています。

名古屋大学ATLASグループで長年TGCを用いたミューオントリガー(詳しくは後述します)の開発に取り組み、今年の4月からKEKでATLAS日本グループのミューオン検出器開発チームの取りまとめ役を務める戸本誠 教授にお話を聞きました。

図3. 戸本誠 教授。/ © KEK IPNS

図3. 戸本誠 教授。/ © KEK IPNS

戸本教授「私達はヒッグス粒子を精密測定して、その特性などを研究しています。最近は、中でも特に、ヒッグス粒子が2つのミューオン(ミューオン対)に崩壊する反応に注目しています。この反応が起こる確率からミューオンのような第2世代の素粒子の質量の起源が、第3世代の素粒子の質量の起源と同様にヒッグス機構(注1)によるものなのか検証しようとしています。」

シンプルな検証方法のようですが、実は大きな関門があります。LHC加速器では毎秒4000万回陽子の塊(塊1個あたり1000億個の陽子が入っています)同士を交差させていますが、ヒッグス粒子は毎秒1回程度の頻度でしか出てきません。さらにそこで生じたヒッグス粒子がミューオン対に崩壊する確率は、標準理論(素粒子の性質や反応の法則などをまとめた理論)の予想によると0.02%と非常に稀なのです。毎秒4000万回の陽子衝突による事象のほとんどは既に十分研究されている反応であり、それらを含む全ての陽子衝突データを蓄積して解析することは計算機資源をひっ迫してしまうため現実的ではありません。そこで、陽子衝突によって大量に飛び出してくる粒子の中から興味のある反応によりできた粒子が存在する事象のみを選別して保存する必要があります。今回の場合はミューオンが含まれる事象を選別することになりますが、これを実現するのが「ミューオントリガー」です。

戸本教授「ミューオン対に崩壊するヒッグス粒子のデータを捉えるために、ATLAS検出器にはミューオンを測定する検出器が必要になりますが、ミューオン検出器は一番外側に設置されています。これはミューオンが物質を非常によく通り抜ける性質を持っている粒子だからなんですよ。ミューオンは電子などの他の粒子と異なり、エネルギーをあまり失わず物質を突き抜けることができます。この性質を利用して、火山やピラミッドなどの内部が調査されていたりします。内側の検出器を突き抜けて一番外側のミューオン検出器に信号を残す粒子はミューオンと判断できるのです。(注:ニュートリノも物質を通り抜けやすい性質を持っていますが、ニュートリノはミューオン検出器も通り抜けて飛び去ってしまいます。)」

図4. ATLAS検出器の断面図。一番下が衝突点で、バウムクーヘンのような層状になって様々な検出器が取り付けられています。衝突点から飛び出す粒子の性質によって進む距離は異なり、物質をよく通り抜けるミューオンを捉える検出器は一番外側に設置されています。/ ATLAS Experiment © 2020 CERN。

図4. ATLAS検出器の断面図。一番下が衝突点で、バウムクーヘンのような層状になって様々な検出器が取り付けられています。衝突点から飛び出す粒子の性質によって進む距離は異なり、物質をよく通り抜けるミューオンを捉える検出器は一番外側に設置されています。/ ATLAS Experiment © 2020 CERN。

戸本教授「ミューオン検出器ではミューオンの運動量を測定します。特にTGCの内部にはガスが充満しており、高電圧のかかったワイヤーが張り巡らされています。その中をミューオンが通るとガスと反応して電子とイオンを作り、そこでできた電子をワイヤーに集めて電気信号を得ることでミューオンの通った軌跡を捉えることができます。

ここで、私達が興味のあるのは運動量の高いミューオンです。陽子と陽子の衝突からは、様々な反応によりミューオンが生じますが、ヒッグス粒子の反応から出てくるミューオンの運動量は高い傾向にあります。ミューオンは電荷を帯びているので磁場の中を通過すると軌道が曲がるのですが、運動量の高いミューオンはあまり曲がりません。ミューオンは、TGCを通過する前に超伝導電磁石による磁場を通過して軌道が曲げられますが、その曲がり具合が小さいミューオンを選び出します。そうやって運動量の高いミューオンを含む事象のみを効率的に選別すれば、私たちが興味のあるデータを優先的に保存して解析することができるようになります。」

図5. ATLAS検出器の一部を横から見たイメージ図。中心から飛び出した粒子の軌道(赤と青の矢印)のうち、磁場を通過した後の軌道をTGCで捉えます。この時、軌道の曲がり具合が小さい(運動量の高い)ミューオンのみを選び出します。

図5. ATLAS検出器の一部を横から見たイメージ図。中心から飛び出した粒子の軌道(赤と青の矢印)のうち、磁場を通過した後の軌道をTGCで捉えます。この時、軌道の曲がり具合が小さい(運動量の高い)ミューオンのみを選び出します。

戸本教授「実は学生時代はBelle実験(注4)に参加していたんですよ。その後ヒッグス粒子の研究をしたいと考え、アメリカFermi研究所のD0(ディーゼロ)実験を経てATLAS実験に携わることになりました。」
こう語る戸本教授はBelle実験の時代から現在に至るまで、検出器の中の「トリガー」を専門に研究・開発してきました。

戸本教授「TGCを使ったミューオントリガーは「ASIC」(Application Specific Integrated Circuitの略)や「FPGA」(Field Programable Gate Arrayの略)と呼ばれる集積回路を使った電子回路で実現されます。現在私達ATLAS日本グループは、LHC高輝度化運転に向けた3種類のミューオントリガー回路を開発中です。一つ目の回路は前段回路で、検出器信号の転送能力を従来よりも10倍向上させ、TGCから出る32万チャンネルの信号を全て後段のミューオントリガー回路に送信します。二つ目は、前段回路に搭載するFPGAを制御する回路です。そして、三つ目の後段のミューオントリガー回路には、従来のものよりも計算能力が10倍高い大規模FPGAを搭載しています。このミューオントリガー回路では、わずか数マイクロ秒でより正確にミューオンの運動量を測定することにより、ミューオンが生じる事象のみを選別する性能を高めています。開発状況は量産の1歩手前という段階で、ここから数年かけて設計通り動くことを確認した後に量産を開始します。まずは前段回路の量産を目指しているところで、本番で使う物と同じデザインのテストボードが最近出来上がりました。このテスト結果が良好ならば、本番用のボードを1500枚程量産する予定です。」

図6. LHC高輝度化運転に向けてATLAS実験専用に開発中のミューオントリガー回路。こちらは一つ目の回路(前段回路)です。縦 25 cm、横 36.5 cmのボードに一辺2 cmの大きさのASICが合計8個搭載されています(写真のボードの手前にはASICを4個搭載した子ボードが載っており、この子ボードの下にも4個のASICが搭載されています)。非常に小さな回路の中に最新の計算技術が詰まっています。

図6. LHC高輝度化運転に向けてATLAS実験専用に開発中のミューオントリガー回路。こちらは一つ目の回路(前段回路)です。縦 25 cm、横 36.5 cmのボードに一辺2 cmの大きさのASICが合計8個搭載されています(写真のボードの手前にはASICを4個搭載した子ボードが載っており、この子ボードの下にも4個のASICが搭載されています)。非常に小さな回路の中に最新の計算技術が詰まっています。

図7.ミューオン検出器のTGC。/ ATLAS Experiment © 2020 CERN

図7.ミューオン検出器のTGC。/ ATLAS Experiment © 2020 CERN

このミューオントリガーによって収集したデータを用いた第二期運転での成果が、2020年8月にCERNと名古屋大学から発表されました(CERN experiments announce first indications of a rare Higgs boson process(CERN)ヒッグス粒子のミュー粒子対崩壊反応の兆候を発見(名古屋大学))。発表によると、ヒッグス粒子がミューオン対に崩壊する反応の兆候を、ATLAS実験が2シグマ(統計的な揺らぎのせいで信号がないのに信号と間違える確率が40分の1未満)、同じくLHC加速器を用いたCMS実験で3シグマ(信号がないのに信号と間違える確率が700分の1未満)の信頼度で観測したのです。ATLAS実験では今後、ミューオン検出器やLHC加速器の性能を向上してデータをさらに蓄積し、5シグマ以上(信号がないのに信号と間違える確率が300万分の1未満)の信頼度による発見を目指します。そのためには、高い運動量のミューオンを含む事象をさらに効率的に捉える新しいミューオントリガー回路の開発の成功が必須です。

戸本教授「ATLAS実験におけるヒッグス粒子の精密測定を通じて、新しい物理の兆候を捉えたいです。そして新たな素粒子物理学のプロジェクトに繋げられるような成果を出すことを目指して頑張っています。検出器開発面においても、難しい技術もありますが、ぜひLHC高輝度化運転に向けたTGCのミューオントリガー回路の刷新を成功させたいです。」

ATLAS検出器とLHC加速器のパワーアップ、そして新たな発見に向けてますますATLAS実験から目が離せません。

図8.開発中の集積回路の試験の合間に笑顔を見せる戸本教授と山田さん。LHC高輝度化に向けて、KEKエレクトロニクスシステム(E-sys)グループと共同でミューオントリガー回路を開発し、現在は名古屋大学の学生と共同で回路の試験中です。/ © KEK IPNS

図8.開発中の集積回路の試験の合間に笑顔を見せる戸本教授と山田さん。LHC高輝度化に向けて、KEKエレクトロニクスシステム(E-sys)グループと共同でミューオントリガー回路を開発し、現在は名古屋大学の学生と共同で回路の試験中です。/ © KEK IPNS

用語解説

注1. ヒッグス粒子
素粒子は物質を構成する粒子と力を伝播する粒子、そしてヒッグス粒子に分類され、中でもヒッグス粒子は物質に質量を与える素粒子です。目には見えませんが、現在の宇宙はヒッグス場で満たされています。宇宙の誕生直後にヒッグス場の性質が劇的に変わり、もともと質量を持たないとされる素粒子が、ヒッグス場との相互作用によって質量を獲得します。この仕組みをヒッグス機構と呼びます。ヒッグス粒子は2012年にATLAS実験と、同じくLHC加速器を用いて行われているCMS実験によって発見されました。

素粒子の分類図。/ © KEK

素粒子の分類図。/ © KEK

注2. カロリメータ
粒子のエネルギーを測定するための装置。飛跡検出器は、電荷を持った粒子の磁場中での軌道の曲がり具合から運動量を測定していますが、カロリメータは検出器内の物質と反応した電子や光、ハドロン(クォークが複数個結合してできた粒子)のエネルギーを測定します。

注3. ミューオン
物質を構成する素粒子には3つの世代があり、クォークとレプトンと呼ばれるグループに分けられます。ミューオンは第2世代のレプトンの1種で、電子と同じ性質を持ちますが、電子よりも200倍重いです。地上まで降り注ぐ宇宙線の主な成分はミューオンです。

注4. Belle実験
Belle実験は、KEKつくばのKEKB加速器で電子と陽電子を衝突させ、そこから生じたB中間子と呼ばれる粒子の崩壊過程を精密に調べることで粒子と反粒子の対称性の破れを研究する実験で、小林誠・益川敏英両博士の2008年のノーベル物理学賞受賞に貢献しています。Belle実験のデータ取得は完了しましたが、現在データ解析は行いつつ、KEKB加速器をSuperKEKB加速器に、そしてBelle測定器をBelle II測定器にアップグレードした Belle II実験が行われています。


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