低速陽電子実験施設

施設紹介

陽電子は電子の反粒子です。本実験施設では,専用リニアック(線形加速器)をもちいて生成した陽電子からエネルギー可変単色陽電子ビーム (低速陽電子ビーム) をつくり,固体表面物性や原子分子物理学の研究を行っています。

陽電子について

電子の反粒子である陽電子は,電荷が正である他は電子と全く同じ性質をもっています。陽電子は,P.A.M. ディラックが1928年に導いた電子に対する相対論的波動方程式の負のエネルギーの解の解釈として,ディラック本人によって1931年にその存在が理論的に予言されました。そして,1932年にC.D. アンダーソンによって霧箱を用いた実験で確認されました。現在ではすべての素粒子に反粒子があることがわかっていますが,陽電子は最初に見いだされた反粒子です。それだけでなく,最初に物質研究に用いられた反粒子で,今でも広く使われています。一般の方に最も身近な使われ方は,癌の所在を明らかにするPET(陽電子放出断層撮影)ではないでしょうか。そのほか,固体の電子状態の研究や,空孔型格子欠陥の研究,多孔性物質の孔のサイズの測定などに用いられています。これらの研究では,陽電子が電子と対消滅したときに生じるガンマ線を検出します。

しかし本施設での実験では,陽電子自体や,陽電子と電子が結合してできるポジトロニウムの直接検出も利用しています。

本施設の低速陽電子ビームの特徴

  • 高強度:1x108 低速陽電子/s (長パルスモード:パルス幅1.2μs)
  • エネルギー可変(最大35keV)で輸送:試料や検出器が通常のアース電位で測定が可能なので,高い汎用性があります。これは高強度低速陽電子ビームでは世界で唯一の特性です。
  • 標準化されたビームライン分岐法:実験の発展に応じる高い拡張性があります。
  • 短パルスモード(パルス幅1~10ns,強度:5x106 低速陽電子/s)オルソポジトロニウムTOFの測定が可能で,パルス・レーザーとの同期が容易です。

陽電子の発生法

専用リニアックで加速した電子ビームをタンタル板製のコンバータに入射します。

  加速エネルギー 50MeV,電力 600W

  パルス運転: 50Hz, ショートパルス(幅1~10ns可変),ロングパルス(幅1.2μs)

コンバータ(厚さ4mmのタンタル板)に入射した高エネルギー陽電子が,タンタル原子核のクーロン力で軌道を曲げられるときに,高エネルギーの制動放射X線が生じます。

制動放射X線がコンバータの外に出る前に,別のタンタル原子核の近傍で電子陽電子対生成(光子の電子・陽電子対への転換)が起きることがあります。そのときに生じた陽電子を利用します。

2020年度には,コンバータと陽電子を低速にするためのタングステン製のモデレータ(下記)のユニットを,10年ぶりに更新しました。同時に構造を少し改良したところ,ビーム強度が増加しました。

⇒ 物構研ニュース第32号

低速陽電子をつくる方法

低速陽電子とは単に低速の陽電子という意味ではなく,次のような方法で低いエネルギーに揃えた陽電子に対する特別な呼び名です。

低速陽電子を作るには,タングステンが負の陽電子仕事関数をもつことを利用します。電子の仕事関数はどの物質でも正なので,金属から電子を取り出すにはエネルギーを与える必要があります。しかし陽電子には,陽電子に対する仕事関数が負の金属が存在し,そのような金属からは陽電子が自発的に外に出てきます。陽電子仕事関数が負の金属には,銅(Cu),ニッケル(Ni),タングステン(W)等があります。

物質中に入射した高エネルギー陽電子はその中で熱化します。熱化とは,エネルギーを失って物質と熱平衡の状態になることです。熱平衡になった陽電子は物質中を拡散し,やがて電子と対消滅してγ線になります。しかし中には消滅する前に拡散して表面まで戻ってくる陽電子があります。もしその物質の陽電子仕事関数が負なら,その陽電子は表面から勝手に飛び出します。飛び出したときの陽電子は仕事関数の絶対値にそろっています。これが低速陽電子です。

この現象をつかって低速陽電子を作るユニットをモデレータといいます。本施設ではタンタル製のコンバータの下流に,厚さ25μm のタングステンの薄膜を格子状に組んだモデレータを配置しています。薄膜を使っているのは体積に対する表面積を多くとるためです。