ILC夏の合宿参加者の集合写真
ILC夏の合宿は、ILCの実現のために、実験物理学者(高エネルギー物理学等)、理論物理学者(素粒子理論等)、加速器研究者(加速器理論、加速器開発等)の三者が集い、ILCの加速器、物理、理論について寝食をともにしながら議論することを通じてのILCの実現を目的として2010年から開始されました。また、ILCとは直接関係はしない研究者を講師として招くことで、物理の幅と人的なネットワークの拡大により、素粒子物理学全体の発展をも意図しています。
- 我々の果たすべき歴史的役割
2018年の現在まで、LHC(大型ハドロンコライダー)ではヒッグス粒子を除く、超対称性粒子などの新しい粒子の発見は報告されていません。このことは何を意味するのでしょうか?標準理論はゲージ不変性を指導原理として、電磁相互作業、弱い相互作用、強い相互作用を記述するモデルとして出発しました。電弱統一理論は二つの相互作用を統一しますが、質量項を入れ込むとゲージ不変性を破ってしまいます。質量項の代りに、真空の対称性を破るヒッグス場を導入することで、ゲージ不変性とボゾンの質量を同居させることができます。このようにヒッグス粒子は質量を説明するために導入され、実験的にも発見されましたが、とても奇妙な存在です。ヒッグスは唯一のスピンゼロの粒子であり、真空の自発的対称性の破れを引き起こし、ボゾンに質量を与え、真空に凝縮し、湯川結合によりフェルミオン(クォーク、レプトン)に質量を与え、と標準理論の矛盾をすべて解決して現在の宇宙を支える存在です。その姿は、千手観音、あるいは地面が崩れ落ちないように支える象の姿にも例えられましょう。
新粒子がLHCで発見されない現状では、何を手掛かりに背後にある新しい物理にアプローチしたらいいのでしょうか。青い鳥がすぐそばにいたように、そのヒントは身近なところにあります。ヒッグス粒子が発見されたことにより、標準理論に登場すべきすべての役者は揃っています。そのすべてを調べることで、標準模型の自己整合性の検証を行うことができるのです。ヒッグス粒子発見以前とは異なる時代に我々は突入しているのです。自己整合性とは、耳慣れない言葉かもしれませんが、英語のself-consistentの訳語です。標準理論の各粒子はジグソーパズルのピースにたとえられます。標準理論が完結した無矛盾の整合した体系ならば、各粒子のピースはピタリとはまり合い、最後には綺麗な絵が完成するはずです。標準理論に矛盾が含まれれば、どこかのピースはうまくはまらず絵は完成しません。ヒッグス粒子が発見される以前はこうは行きません。うまくピースがはまらなくても、未発見のヒッグス粒子の形を調整してしまえば、とりあえず標準理論は整合を保つことできます。しかし、すでにわれわれはヒッグス粒子の形をある程度しっていますので、そのような調整の幅は大きく制限されるのです。
一方で、我々はすべてのピースの形を詳細にしっているわけではありません。かつて、ティコブラーエの病的ともいえる精密な惑星運動の記録から、プトレマイオスのきわめて精緻な天動説の矛盾が露呈したように、ピースの形を詳細にしらべる必要があります。神は細部に宿りますが、真実はわずかな隙間にあるのです。
ピースの中でもっとも測定精度の乏しいものは、発見間もないヒッグス粒子です。そして、すでに述べたように、ヒッグス粒子は大変奇妙で、多くの役割を押し付けられ、それをいとも簡単にこなしているように見えます。ヒッグス粒子を集中的に調べることで、標準理論のほころびが発見される確率は、極めて高いのです。我々は、21世紀のティコブラーエ、そしてコペルニクスにならなくてはなりません。今という時代に生きている素粒子物理学研究者にとって、それは半ば義務と言えましょう。
- ILC夏の合宿2018
本年は、ILCにおいても極めて重要な年です。現在、学術会議においてILCについての特別委員会が開催され、結論が近々出されるはずです。欧州各国、CERN(欧州合同原子核研究機関)は、日本がILCをホストすることに向けた国際交渉に乗り出すことを条件に、欧州がILCに財政的な負担を伴って参加する方針のようです。米国は、閣僚レベルの発言として、ILCへの財政的負担をともなう参加を表明しています。日本が今年中に国際交渉の開始を表明すれば、アジア、欧州、そして米国の三極によるILC計画が実質的に開始される状況にあるのです。
そのような重要な局面の中で、本合宿は開催されました。会場は山口県下松市笠戸島にある国民宿舎大城。山口県の東部にあり、新幹線も停車する徳山駅から山陽本線で二駅目の下松駅で下車し、そこからバスで20分という便利な場所にあります。
開催初日の9月9日は朝から激しい雨が降り続き、徳山駅から下松駅までの山陽本線は、線路に落石があったため、安全確認のため一時運行が停止されるなど混乱が心配されましたが、結果的には交通における支障もなく予定通り開始できることとなりました。
しかし今年は災害の多い年であり、7月の西日本豪雨で運行が停止されていた山陽本線下松~柳井間は偶然にも9月9日が運行再開日でした。9月4日には台風21号が上陸し、関西地方を中心に大きな被害があり、関西空港は運行再開されておらず、数名が参加を断念せざるを得ませんでした。直前の9月6日には北海道胆振東部地震が発生し、やはり一名が参加を断念せざるを得ませんでした。それでも70名を超える参加者を得て、ILC夏の合宿は盛大に開催されました。会場となった国民宿舎大城の全面的な協力のもと、期間内はILC合宿の貸し切りとしていただき、本来は必要な会議場の使用料を負担せずに、朝から晩、というよりは24時間体制で使用させていただき、参加者は合宿を満喫できたことでしょう。国民宿舎大城は、全国にある国民宿舎の中でもっとも新しく、部屋も広く快適、窓からは笠戸湾のオーシャンビュー、天然温泉と瀬戸内の海の幸を堪能させていただきました。
合宿は9日13時30分に始まり、12日の12時30分ごろに終了しました。ILCの加速器、測定器、実験物理、素粒子理論の最新動向、観測的宇宙論、光学、ILCからの二次粒子の発生とその応用、と今年も多用なトピックが並びました。詳細は下記WEBページからご覧いただければと思います。過去の合宿もここから閲覧することができます。
- ナイトセッションとヤングセッション
ILC夏の合宿ではユニークな取り組みとして、ナイトセッションとヤングセッションが行われています。
ナイトセッションとは、夜9時から体力の続く限り物理や技術などの話題について語り合うというイベントです。ことの起こりは第二回の富山における夏の合宿でした。KEK加速器の横谷馨氏がILC加速器の概要について講義を60分の予定で行いましたが、質問などが相次ぎ予定の半分の内容も消化できませんでした。夕食後に有志が集まるためのナイトセッション(いわゆる飲み会)が設定されておりましたが、そこでその続きをすることにしたのです。これをきっかけとして、お酒を飲みながら物理の議論をするというナイトセッションという伝統が開始されることになったのです。結局、横谷氏の話が終わったのは翌日となってからでした。今回もナイトセッションがプログラムとして組み込まれ、座長の乾杯の掛け声とともに講演がスタートされました。
もう一つのヤングセッションは、主に大学院生向けに短時間の発表をしてもらう枠で、主に現在の研究テーマについて、講演をしてもらいます。これも毎年多くの参加者があり、時間があまりとれないのが悩みです。今回はヤングセッションに申し込んだもののうち、内容的にしっかりしていそうな学生を選び出し、ナイトセッションで思う存分話してもらうという試みをしました。おかげで今回は講演時間として一人当たり10分を確保でき、学生の皆さんもある程度は落ち着いて発表できたのではないかと思います。
- 遠足
前回の長野県の乗鞍高原での合宿で、乗鞍岳への登山が初めて半日の遠足がプログラムにくみこまれました。今回の笠戸島周辺で注目すべきスポットとしては、今治造船の新笠戸ドック、そして日立製作所の笠戸事業所があります。特に日立製作所笠戸事業所は、鉄道車両の製造工場としては国内有数の規模をほこる、その業界ではかなり有名な存在であります。日立製作所はILCのクライオモジュール製作にも取り組んでいる企業であり、おなじ大型鉄鋼製品として鉄道車両製作現場を体感することは加速器設計、建設において非常に有用である、という主催者の強い意向もあり、本事業所の見学を合宿遠足とすることとしました。
笠戸事業所では、初代0系を含むほぼすべての新幹線車両が製作されており、現在でもJR東海N700系や、JR東日本E5, E6, E7系などが製造されています。それぞれ、東海道、山陽、九州新幹線、東北・秋田新幹線、北陸新幹線などで現在でも運用されています。それに加え、加速器・高エネルギー業界の人になじみあるものとして、つくばエクスプレスのTX2000系がこの笠戸事業所で製作されています。TX2000系は交直両用型車両として、秋葉原からつくばまで運行されており、つくばに電車で行く人はかならず利用している車両です。ちなみに、直流型車両TX1000は川崎重工兵庫工場で製作されています。TX1000は直流専用車なので、直流電化区間である秋葉原から守屋まで運行されています。守屋からつくばは交流電化区間です。守屋から北の区間は法律により直流電化が禁止されています。電気事業法の電気設備に関する技術基準を定める省令により、茨城県の石岡にある地磁気観測所の半径30km以内の地域では、基本的に直流による鉄道路線の電化が禁止されています。理由は地磁気の観測に影響を及ぼすためです。
バスで宿舎を出発した我々は、20分ほどで笠戸事業所に到着しました。最初に10分程度笠戸事業の概要を紹介したビデオを見てから、ヘルメット、防護眼鏡などの装備を整え、2班に分かれて見学の開始です。バスで工場中央通りをゆっくりと進むと、左右に次々と車両工場が現れ、なじみのある、あるいは海外向けの車両が多くみられました。印象的なのは、車両の一部は露天(もちろん雨がかからないようにカバーでおおわれている)で作業が行われていたことでした。説明された工場の方によりますと、現在は英国ファーストグレートウエスタン鉄道、ヴァージントレインズイーストコースト鉄道向け800系という車両の大量製造が続いており、かなりタイトなスケジュールで生産を続けているとのことでした。一部の読者は日立車両が英国サウスイースタン鉄道向けの395系を受注したというニュースを覚えているかもしれません。英国は鉄道発祥の国であり、ヨーロッパ各地にはジーメンスやアルストムなどの有力メーカーがあり、日本の車両メーカーが食い込むのは異例のことだったからです。その後イギリスから大量受注が続いていることは、前回の395系が高く評価されているということで、日立の株を持っているわけでも、親戚が勤めているわけでもないですが、喜ばしいことです。
工場内には車両積み出し用の港湾施設があり、通常はここから車両を出荷するとのことです。TX2000もここから船にのり、おそらく鹿島港あたりから陸揚げされ、陸送されたに違いありません。ちなみに筆者はTXの車両の陸送に遭遇したことがあります。深夜の国道354線の小貝川橋梁あたりを水海道に向けて、見たこともない大型トレーラーに載せられ、前後を警戒灯を回転させた別の車両が固め、やや遅めの速度で進行していたのを思い出します。つくばエクスプレスが開業する数か月前のことです。
日立の笠戸事業所は地域社会においても自慢の存在らしく、国民宿舎大城のロビーには新幹線700系のグリーン車仕様の座席がソファーの代りに並べられておりました。イギリス向け800系の出荷は大型船が接岸できる下松市の公共ふ頭から行われるため、夜間に数キロの区間、公共道路を利用しての陸送がしばしば行われています。公開されない陸送の情報を独自の情報網で把握した一部鉄道ファンが撮影し、SNS等で投稿するため、一般にも認知されることとなっています。この陸送を下松市のPRに利用しようと、わざわざ昼間にイベントとして行ったらしく、宿舎のロビーにあるモニターにはその風景がエンドレスで流されておりました。当日は3万もの見物客が押し寄せたようです。
工場見学の最中に明らかとなったことですが、笠戸工場は鉄道車両以外にも、プラント用の製品も製造しており、トリスタンのヘリウム冷凍機もここで製造されたことが再発見されました。世界初の超伝導加速器のための冷凍機を製造した工場に、ILC夏の合宿の一行が訪れるとは、なんという偶然でしょうか。
このように、日立製作所笠戸事業所への見学は非常に有意義かつ充実した時間でした。製造車両の甲種輸送用に設置された山陽本線から工場への引き込み線の上を通り、宿舎に無事帰還果たしたのでした。
- ILC夏の合宿のこれから
来年以降のILC夏の合宿について最後に考えてみましょう。来年以降のILCの夏の合宿については、今後のILCの状況に大きく依存することになるのは疑いようがありません。理想的な場合は、学術会議が、ILCの学術的な意義を認め(これは前回の学術会議答申ですでに認められています)、さらに実施する条件が充分に整っており、LCの推進を政府に勧告する、という答申を出すことです。中立的な答申がでても、政府や省庁は実施の可能性の向けた検討にはいるので、実質的には同じことでしょう。学術会議が、ILCの学術的意義は認めるが、技術的に未成熟で実施可能性が極めて低いと判断されると(我々は非常に心外ですが)、おそらくILC計画は中止となるでしょう。技術的内容に我々は自信をもっていますので、このような答申がでることは考えにくいのですが。
ILCが走り出した場合、現在のような親睦を目的とした合宿は、その目的を終えることとなります。なぜなら、より実務的な、会合の必要性が高まるからです。合宿を行うにしても、ILCコラボレーションとして、加速器部隊、測定器部隊、そして理論部隊間のワークショップ的な色彩が増えるものと思われます。また、ILC計画が中止になれば、当然のごとく合宿も開催されません。いずれにしろ、親睦を目的とした合宿は今年で最後となります。
新しいILC夏の合宿NEOが開催されるのか、合宿そのものが消滅するのか。今後数か月でそれははっきりするでしょう。