素粒子研究に捧げた人生 ~戸塚洋二先生を偲ぶ~

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故戸塚洋二KEK前機構長(2002年6月撮影)

高エネルギー加速器研究機構(KEK)前機構長で、東京大学宇宙線研究所の神岡宇宙素粒子研究施設長などを歴任された戸塚洋二東京大学特別栄誉教授が7月10日、ご逝去されました。享年66。最もノーベル賞に近いと言われた偉大な物理学者の早すぎる死に、世界中から哀悼の意が表されました。

 

小柴昌俊東京大学特別栄誉教授が開拓し、日本が世界をリードするニュートリノ研究。戸塚氏は、小柴氏の後継者として、さらに研究を進め、数々の成果を収められました。1996年から観測が始まったスーパーカミオカンデ(岐阜県神岡町)では、太陽および地球の大気中で生じるニュートリノの性質を調べ、3種類のニュートリノが相互に転換する現象「ニュートリノ振動」を発見しました。これはニュートリノに質量があることを示すもので、「根源的な理論を変える(クリントン前米大統領)」素粒子物理の一大発見となりました。

 

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2004年8月に中国北京で開催されたICFAにおいて超伝導加速の採用が正式に決定された。決定後の記者会見に臨むICFAメンバー。後列中央が戸塚氏。

2003年4月~2006年3月までの3年間、KEK機構長の職を務められた戸塚氏は、大強度陽子加速器J-PARCの建設やKEKの将来計画の策定などに尽力される一方、将来加速器国際委員会(ICFA)のメンバーとしても活躍され、日本でのILC計画推進の中心となって活動されました。2004年8月に、ILC加速技術として超伝導方式が採用されると、戸塚氏は即座に第一回のILC加速器ワークショップを日本で開催しました。当時ILCの基本技術としては、常伝導加速空洞と超伝導加速空洞という二つの方式が提案されており、研究者間で議論を呼んでいました。このうち常伝導方式は、日本と米国において20年近くにわたり研究開発が続けられており、超伝導方式は、ヨーロッパで研究が進んでいました。戸塚氏は、超伝導方式の採用の決定直後にワークショップを開催することによって、混乱も予想できた世界の研究者グループの手綱を取り、現在の国際的なILC計画推進体制の素地を固めたのです。2005年2月には、ILC実現に対する機構長の対応等に助言し、日本への誘致の可能性等、ILCの様々な課題について検討する、各界の有識者から成る私的懇談会を立ち上げました。ILC研究開発における、日本の産学官政の現在の協力体制は、世界でも例をみないほど強固なものですが、戸塚氏のリーダーシップがその源であったということができるでしょう。

 

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2006年10月に、KEKの超伝導線形加速器を納める断熱真空容器を視察する戸塚氏(中央)。

最後まで現役の物理学者として、研究や科学の進め方にいつも広い視野で深い洞察と的確な助言を述べておられた戸塚氏の姿は、世界中の研究者の胸に刻み込まれています。「(優秀な後継者に恵まれて)幸せだと世間から言われていましたが、跡取り、教え子を見送らなければならない私はなんと不幸な教師なのでしょうか。しかし、君の成し遂げた偉業を引きついでいかねばなりません」小柴氏は、後世に戸塚氏の功績を伝え、後進を育成するために、平成基礎科学財団に「戸塚洋二賞」を設置することを決定しました。「若い科学者のはげみにしたいと思います」(小柴氏)

 

戸塚氏は研究では一切の妥協を許さず、常に物事の本質を鋭く見つめる物理学者でした。体調を崩し機構長を退任した後も、折を見てはKEKに足を運び、ILC計画の進捗状況に常に気を配っていらっしゃいました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 

戸塚洋二
1942年静岡県生まれ。1972年に東京大学大学院理学系研究科で博士号を取得、同大学理学部や宇宙線研究所の教授を歴任。理学部教授(当時)小柴昌俊氏門下の2期生として、東京大学宇宙線研究所神岡地下観測所(岐阜県)で「カミオカンデ」の実験に従事。1987年には小柴氏らとともに、超新星から飛来するニュートリノを世界で初めて観測した。2002年、ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏とともに、東京大学が制定した「特別栄誉教授」の終身称号を初めて授与された。2003~2006年の一期3年間、KEK機構長の職を務めた。続投を嘱望されるも体調を崩され退任。紫綬褒章、文化勲章、米国天文学会ロッシ賞、ベンジャミンフランクリンメダル、欧州物理学会特別賞など、数多くの賞を受賞。ノーベル賞候補としても注目されていた。