2013ノーベル物理学賞とILC

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2012 年7 月4 日、CERN において、ATLAS 実験グループとCMS 実験グループが“ ヒッグスらしき粒子” の発見を発表した時の フランソワ・アングレール氏(左)とピーター・ヒッグス氏。(画像:Maximilien Brice/CERN)

 

多くの人にとって「予想通り」の結果だったかもしれない。また、早過ぎると思った人もいただろう。その「証拠」が発見されたと発表されたのは今年3月、そして論文の発表による確定にいたっては、ノーベル物理学賞発表の前日のことだったからだ。「証拠」とは、欧州合同原子核研究機関(CERN)の大型ハドロンコライダー(LHC)を用いたATLAS 実験、CMS 実験で発見された新素粒子「ヒッグス粒子」のことだ。

2013 年10 月8 日(火)、ノーベル財団は、フランソワ・ア ングレール、ピーター・ヒッグスの両博士にノーベル物理学賞を 授与すると発表した。受賞理由は素粒子の質量にはメカニズムに よる起源があるという理論的予測である。このメカニズムは「ヒッ グス機構」と呼ばれることが多い。しかし、ノーベル財団はこの 質量の起源となるメカニズムのことを、「BEH 機構」と呼んだ。 B は1964 年のアングレール氏の論文の共著者で、2011 年に亡 くなったロバート・ブラウト氏の頭文字、E はアングレール氏 の頭文字、H はヒッグス氏の頭文字。「ヒッグス氏だけではない」 ということだろう。しかし、このメカニズムを1964 年に論文で 発表したのは、実はこの 3 人だけではない。ジェ ラルド・グラニクル、カー ル・ヘイゲン、トーマス・ キッブルの3 氏も同年、 共著で論文を発表してい るのだ。ノーベル賞が授 与されるのは3 名のみ。 誰が受賞するのか、注目 が集まっていた。

ヒッグス粒子の発見が 画期的であった理由のひ とつは、この粒子の存在 は、純粋に数学的考察か ら理論的に予言されたこ とだ。「ヒッグス粒子」 と いう謎の新粒子について は、その存在を直接示唆 する実験的事実は一切見 つかっていなかったのだ。 いわば、数式を根拠にし た「想像の産物」。この粒子の存在を信じていなかった物理学者 も多かったのだ。東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構(IPMU) の村山斉機構長もその1人である。「そんな粒子があると考える ことは、とても気持ちが悪かったのです。ヒッグス粒子は、今ま で見たことの無い『カオナシ』のような粒子だからです」(村山氏)。

この世界の全ての物質の間に働く4 つの力のひとつ「弱い力」 を伝える粒子はW 粒子とZ 粒子だ。これらの粒子はとても重た く、W 粒子はなんと陽子の80 倍以上の質量を持っている。とこ ろが、当時知られていた理論をどう使ってもW とZ 粒子は質量 がなく、素粒子に弱い力が働いている時の法則を導き出すことが できないのだ。そこで、アングレール・ヒッグス両氏は、元々は 質量ゼロの粒子が、あるメカニズムによって質量を持つように なったと仮定すると、 弱い力の理論がつくれると考えた。そして、 この「あるメカニズム」が働いているならば、新しい素粒子が見 つかるはずだと予測したのである。つまり、新粒子が発見されれ ば、このメカニズムが働いている証拠になる。その決定的証拠に なったのが、LHC 実験が発見した「ヒッグス粒子」である。

この理論はその後、W 粒子とZ 粒子だけではなく、電子やトッ プ・クォークなど、他の粒子についても「質量を持つ」という基 本的な性質が、メカニズムによって与えられたものである、とい う考えに発展し、標準理論と呼ばれる理論体系が作られて来た。 まさに現代素粒子物理学の土台となる考えなのだ。しかしこの「あ るメカニズム」、ひと言で片付けられるような簡単な仕組みでは ない。非常に複雑な計算を経てたどり着く理論であるため、村山 氏のような「気持ち悪さ」を未だに感じている科学者も多いと言 う。とはいえ、これまでの実験の結果は0.1 パーセントの誤差で この理論が正しいことを示していたのだ

ノーベル物理学賞の発表は予定時刻の日本時間8 日午後6 時 45 分を大幅に遅れた。その理由については「CERN にも賞を授 与すべきだという議論があったから」という説もある。物理学賞 を含むノーベル賞の自然科学分野3 賞は、これまですべて個人 の業績に与えられており、研究所が受賞したことは無い。発表遅 延の真相は明らかではないが、研究所に対する賞の授与が議論と なることは、特に素粒子物理学という分野では当然の流れという ことが出来るだろう。現代物理学を推進するために必要される加 速器実験は、大規模化・グローバル化が進んでいる。もはや受賞 者を3 名にしぼることは不可能とも言えるだろう。

実験で理論が検証された時に、その理論を提唱した物理学者に ノーベル賞が授与される、という最近の流れから「ヒッグス粒子 は発見されてしまったから、ILC の実験ではノーベル賞は取れ ない」という声も聞かれる。もちろん、研究自体はノーベル賞を 目指して行われているわけではないが、このような「お墨付き」が、 研究の大きな後押しになることは否めない。ILC の研究からは ノーベル賞は出ないのだろうか? ILC の研究はヒッグスの精密 測定だけではない。ダークマターや、現在私たちが認識できてい る4 次元を超える「余剰次元」の存在や、他の素粒子と比べて飛 び抜けて重たいトップ・クォークはどうしてそんなに重いのか? といったILC で挑戦する大きな課題は多い。さらに、まだ誰も その存在を予言していない粒子が発見される可能性もある。ILC は、素粒子の衝突する反応がとてもクリアなので、LHC では見 逃してしまうような現象でも発見することが可能なのだ。そんな 新発見がILC から生まれたとき、ノーベル財団はようやく「個 人3 名までに授与」というルールを変更するのかもしれない。

村山氏は「私は別のノーベル賞がLHC での実験にふさわしい と本気で思っています」と言う。それはノーベル平和賞だ。両実 験では、政治紛争中の国出身の研究者同士が、共通の目標を達成 するためにともに働き、素晴らしい成果を達成した。これは、基 礎科学が、個人や国家の利益を追求するために推進される活動で はないことから可能になったといえるだろう。「加速器科学の推 進は、真の平和の象徴であるといえるでしょう」(村山氏)。