人生はジェットコースター

ILC ニュースライン

*7月4日発行のILC ニュースラインに掲載した、ダニエル・ジーン氏のブログ投稿の和訳記事です。

ダニエル・ジーン氏(KEK素粒子原子核研究所 所属)  

私はKEK素粒子原子核研究所の研究者です。生まれも育ちも英国ですが、何世代か遡ると、私のルーツは中央ヨーロッパをまたぐことになると思います。思えば、私は常に科学に興味がありました。理系の家庭だったということもあり、いつも何らかのものを顕微鏡で観察していました。

物理に興味を抱いたのは高校時代。何人かの素晴らしい恩師の影響と、私は暗記科目が得意でなかった、というより、多くの事実や名前、反応などを記憶するのが嫌いだったせいもあると思います。大学での私のアドバイザーは素粒子物理学者でした。先生の素粒子に対する情熱が、いつの間にか私の体に染みついたのかもしれません。

私が博士課程を始めたのは、ちょうど21世紀に入る頃のことでした。私は研究課題として、CERNのLEP加速器の測定器を運用する「DELPHIコラボレーション」での研究を選びました。CERNで2年間を過ごすことができたのは幸運でした。国際的な「CERNスピリット」を楽しみ、測定器から得られるデータにワクワクして過ごしました。ほんの数メートル先で粒子が衝突している間に、地下深くにある測定器によじ登り、「自分の」ミュオン検出器をチェックする時の興奮は、今だに私の中に残っています。

LEPでの精密測定でわかったことは、ヒッグス粒子はすぐそこにあること、そしてその質量はLEPが到達できるエネルギーの上限に近いことでした。加速器研究者たちは、私たち実験研究者がヒッグス粒子の尻尾をつかむことができるよう、がんばってエネルギーを上げられるだけ上げてくれました。私はW粒子の研究をしていました。W粒子はヒッグス粒子と密接に関係のある粒子なので、私は注意深く見守っていました。さまざまな測定器で、ヒッグス粒子らしき反応が起きたことが伝えられると、コーヒールームやカフェテリアに、まるで山火事のように噂話が広がりました。

後からわかったことですが、LEPはヒッグス粒子を作り出せるエネルギーには達していなかったのです。なので、それらのヒッグスらしき反応は、他のプロセスによるものでした… LEPでの精密測定は長い運用期間のあいだに、多くの素晴らしい実験成果を上げました。しかし、ヒッグス粒子を発見することなくLEPが運転を停止し、LHC建設のために場所を明け渡す時には、とても寂しく、あっけない感じがしました。

新人物理学者の私に、他の実験を探す時が来ました。新しい実験を探すだけでなく、新しい環境に移る可能性も考えました。私が落ち着いたところは、イタリア、ローマにあるINFN研究所でした。そこで、フェルミ研究所のCDF実験に加わったのです。イタリアへ行くのは初めてでしたが、良い場所でしたし、DELPHIのイタリア人研究者たちとも仲良くなりました。ただ、夏の暑さは衝撃的でした。駐機場に足を踏み入れたときのショックを今でも覚えています

その頃、テバトロン加速器は絶好調でした。標準理論で最も質量が重い粒子であるトップクォークを大量に作り出し、これまでない精密さで測定を行っていました。私はb-ジェットの特定に使うツールの開発に携わることになりました。b-ジェットは、ほぼ全てのトップクォークの崩壊の際に生成され、ヒッグス粒子が崩壊する際にも多数生成されると考えられています。

後に、私がCDF実験に携わっていた5年の間に、数千ものヒッグス粒子が生成されていたことがわかりました。しかし、ハドロン同士の衝突で起こる反応は乱雑で、それらがヒッグス粒子であることが特定できなかったのです。

LHCでヒッグス粒子が発見された後、それは私がCDF実験を離れてかなり経った頃のことですが、CDFグループは「ヒッグス粒子生成の証拠」を示す論文を発表しました。以前私が開発したbジェットを特定するツールが分析に使用されました。つまり、私もヒッグスの発見の確認に貢献したということです! ほんの小さな貢献ではありますが。

大型衝突実験のDELPHI とCDFが終わりに近づき、私は、他の大型計画への参加を検討する時期が来た、と考えていました。そして現在の妻の影響もあり、日本にも興味がありました。2006年当時、次世代高エネルギー電子・陽電子衝突加速器「国際リニアコライダー(ILC)」への期待が盛り上がっていました。いくつかの研究グループが異なる加速技術の研究に携わっていたのですが、たったひとつのプロジェクト「ILC」に、全てのリソースを集中させることに合意したのです。日本はILCの主要な役割を担う国の一つでした。だから、私が求めていたものと、ぴったり合致したのです。

私は現在の妻に、ILCのR&Dに携わっている研究機関のリストを見せました。彼女は、暮らすのにベストな場所として神戸を選び、私は神戸大学に移りました。神戸は、さまざまな観点から素晴らしい選択でした。私はCALICE実験グループで、ILCで将来行われる実験で使うカロリメータの技術を開発していました。また、ILCでどのようにヒッグス粒子のプロパティを測定することができるのか、理解しようとしていました。測定器のプロトタイプを作り、テストビームに持っていき、性能を確認することは、私にとって新しい経験でした。そして、それがうまく行った時の満足感はひとしおでした (実験の成功は専ら私の同僚のおかげです。私は常に全力でなんとか付いて行っていました)。

日本でのフェローシップが終わり、私はパリ近郊のルブランス=ランゲ研究所に移り、引き続きカロリメータとヒッグス物理に取り組んでいました。ILCグループは、電子陽電子実験の長い歴史があり、粒子流熱量測定において独創的な貢献をしていました。研究所には強力な社内エンジニアリンググループがあり、そこに所属する専門家の貢献も多大でした。

それはちょうどLHCが始動する頃で、研究所の隣の部屋では、研究者グループがLHCのCMS実験に取り組んでいました。LHC実験はどんどん盛り上がりを見せていました。そして、一緒にコーヒーブレイクを過ごすうちにその興奮が私たちにも伝わってきました。いろいろな噂が流れました。特にヒッグス粒子に関する噂が多かったのですが、信憑性は定かではありませんでした。というのも、CMSの研究者たちは、ヒッグスのことを聞かれると、いつも曖昧な態度をとっていたのです。

2012年に、正式にヒッグス粒子発見が発表されました。ちょうど、東京大学に移動するために私が日本に戻る準備をしていた時です。それほど驚くニュースではなかったのですが、素粒子物理がニュースメディアを席巻していたことは、最高にワクワクしました。

いよいよヒッグス粒子の存在が確かになったので、私たちは、できるかぎり精密な測定を行いたいと考えていました。ヒッグス粒子の精密測定を行う素晴らしい実験環境を提供できるILCの設計は、かなり成熟していました。日本の高エネルギーコミュニティは、ILCを日本で実現させたいとの意思表示をし、2013年、最適な建設候補地として北上高地を選んだのです。そして、日本政府に対して、ILCをホストする提案書が出されました。

数十億ドル規模の国際科学プロジェクトを立ち上げ、実現させるためには、国内外の科学者、産業界、地方自治体、政府、一般市民などの間の微妙な調整を必要とします。私の同僚の一人(フランス人)は、これを手作りのマヨネーズに例えました。私たちは現在、ILCを「乳化させる」段階にあるのです。

報告者の提出や、政治家の発言、素粒子物理学コミュニティの優先順位付け、大臣の発表、地方自治体での動きなど、ILCに関する様々な出来事がある度に、一喜一憂していています。さながらジェットコースターに乗っているかのようです!

こんな中でも、変わらないことが1つあります。それは、ILCなどの電子陽電子衝突型加速器がヒッグス粒子とその相互作用について、素晴らしい測定を行う能力があること、そしてそれらの加速器によって宇宙の働きをより深く理解できるという根本的な重要性です。

私たちのグループの取り組みは、大きなILCの活動の中のほんの一部ではありますが、この目標があることで、日々の活動に集中することができているのです。

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