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ニュートリノとともに 2008.7.17 |
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〜 戸塚洋二先生の思い出 〜 |
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2008年7月10日午前2時50分、KEK前機構長の戸塚洋二先生が長いご闘病の末にご永眠されました。いつも自由闊達で指導力あふれるお人柄と、先生が残された数々の偉大な業績に、そのあまりにも早すぎる死を悼む声が世界各地から寄せられています。 精神的な支え 鈴木厚人KEK機構長は追悼文の中で、「基準となる精神的な支えを突如取り去られてしまったような、また、大きな、常に寄りかかれる柱を突然失ってしまった思いです」と述べています。最後まで現役の物理学者として、研究や科学の進め方にいつも広い視野で深い洞察と的確な助言を述べておられた戸塚先生のお姿は、世界中の研究者の胸に刻み込まれています。 戸塚先生は1965年に東京大学理学部物理学科を卒業され、同大学大学院理学研究科で小柴昌俊教授の指導のもとで神岡鉱山の地下で高エネルギーの宇宙線の現象の一つであるミュー粒子が束になって降ってくる現象(ミュー束)の研究をされていました。先生はご生前、当時を振り返って「小柴先生にはよく『俺は東大をビリで卒業した。その俺がビリのお前を教えるのだから、ビリの二乗だ』と言われて閉口したよ」と笑いながらおっしゃっていました。 理学博士を取得された後は、東京大学の助手として西ドイツ(当時)のDESY研究所に赴任され、建設されたばかりの電子と陽電子の衝突型加速器 DORISを用いるDASPという実験グループに参加されました。担当していた装置がうまく動かない時などには同僚に悩みを率直に打ち明け、問題点を徹底的に洗い出して解決していく先生の研究スタイルは、この時に身に付いたものだと述べられていました。 大気ニュートリノの異変に気づく DESY研究所ではDORIS実験の後、より高エネルギーの実験であるJADEグループに参加し、3,000本の光電子増倍管を用いた検出装置の製作などを担当されました。その後、カミオカンデを建設する際に小柴教授が戸塚先生を日本に呼び戻し、再び神岡鉱山の地下に潜る生活が始まります。 カミオカンデでは、1987年2月に大マゼラン雲の超新星爆発によるニュートリノを捉えたことで小柴教授がノーベル物理学賞を受賞されましたが、小柴先生は「私の教え子からもノーベル賞を取る人間が出てくる」とおっしゃられていました。そのような業績の一つが大気ニュートリノの異常です。 神岡の地下1,000メートルに設置されたカミオカンデでは、大気の上層でミュー粒子や電子が作られる際に、ミュー型ニュートリノと電子型ニュートリノが生成されます。その数の比は、宇宙のどの方向を観測してもほぼ一定のはずですが、カミオカンデのミュー型ニュートリノと電子型ニュートリノの数の比のデータを詳しく見ると、測定器の上方向からやってくる場合と、地球の反対側からやってくる場合とで違うことがわかりました。世界の他の研究者は当初、測定器の不具合かデータ解析の間違いであるとして、この結果を信用しませんでしたが、カミオカンデの装置を隅々まで知りつくしていた戸塚先生は、ご自分のグループのデータ解析に絶対の自信を持っていました。 スーパーカミオカンデを率いる 3,000トンの水と1,000本の光電子増倍管を用いるカミオカンデをさらに巨大にして、5万トンの水と1万1千本の光電子増倍管を用いるスーパーカミオカンデの建設が始まったのは1991年のことでした。戸塚先生は測定器の設計から実験データの解析にいたるまで計画の先頭に立ってメンバーを鼓舞し、大気ニュートリノのデータの異常が測定器や解析のミスによるものではなく、ニュートリノに質量があることによるニュートリノ振動という現象であることを世界に認めさせました。1998年に高山市で開かれたニュートリノ国際会議では、会議の参加者が全員起立して長い間拍手がなりやまないスタンディングオベーションでスーパーカミオカンデグループの成果をたたえました。 2001年11月に光電子増倍管の70%が破損するという事故があったときにも、海外出張の帰国からすぐに現場に駆けつけ、「直ちに原因を究明し、1年以内に実験を再開する」という力強いメッセージを全世界の研究者に伝え、強いリーダーシップで言葉通りに実験を再開しました。 KEKの機構長に 戸塚先生は2002年6月にKEKの次期機構長候補者として選出され、2003年4月から2006年3月までの3年間、機構長の職を務められました。この間、大強度陽子加速器J-PARCの建設やKEKの将来計画の策定などに尽力される一方、将来加速器国際委員会(ICFA)のメンバーとしても活躍され、深い洞察で国内外の加速器科学や素粒子物理学の将来について国内外の研究者と議論を続け、若手研究者が活躍しやすい環境を作り上げることに心を砕いておられました。 KEKに実習に訪れる高校生などにも常に暖かい言葉をかけられ、科学者としての厳然たる姿勢を次世代に伝える努力を欠かしませんでした。 一方では、神岡滞在中から植物に興味を持たれ、KEKでも休み時間にはよく構内を散歩されて、気になる植物の花や葉っぱの写真を撮影しておられました。「この花の名前を知ってるかい?」と周囲に問いかけて、「なんだ、君は物理は詳しいけど、植物のことはなんにも知らないね」とほがらかに笑っておられた先生の笑顔が忘れられないという研究者もたくさんいます。 戸塚先生は研究では妥協を許さず、所属や国籍などにとらわれることなく、つねに物事の本質を鋭く見つめる物理学者でした。謹んでお悔やみ申し上げます。
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