それは何の役に立つのですか?

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名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長益川敏英氏(左)とKEK機構長鈴木厚人氏 (名古屋で開催されたAAAシンポジウムにて)

科学技術が話題になる時、必ずと言って良いほど登場する質問がある―「それは何に役立つのですか?」そしてこの質問は、素粒子物理学など基礎科学研究に携わるものにとっては最も苦手な質問のひとつである。昨年11月に名古屋で開催された先端加速器科学技術推進協議会(AAA)のシンポジウムの講演で、鈴木厚人高エネルギー加速器研究機構(KEK)機構長は「小柴昌俊先生は、よくご自分のニュートリノの研究について『何の役にも立ちません』とおっしゃいます。ノーベル賞受賞者であれば、そんなことも言えるのでしょうが、我々はそういう訳にはいかない。なので、最近は色々なところで役に立つ加速器の話をするようにしています」と語った。

加速器はどのように役立っているのだろうか?「加速器からつくり出される放射光や中性子を用いると、装置の内部の透視や薬剤の働く仕組みなどが解ります」と鈴木氏。非破壊検査や創薬、レアメタルなど新材料の研究などで、加速器は既に幅広く使われている。鈴木氏はまた、加速器が粒子線によるがん治療やPETなどの検査装置として医療分野で利用されていることも例として挙げた。「さらに、将来の技術として宇宙での利用や生命科学への利用も期待されています」

素粒子物理の研究は実際に、社会の常識や生活スタイルなどをドラスティックに変えて来た。最も顕著な例は電子の発見である。発見当初はその正体すらわからなかった電子だが、研究が進んでその性質や働く仕組みなどが明らかにされることによって、電力という生活インフラとして、そしてコンピューターや電化製品をはじめ、生活を支える製品や装置へと広く応用されている。基礎科学の研究で、ものの根源的な「仕組み」がわかって初めて、何かに応用することができるようになるのである。

とはいえ、これまでは素粒子物理などの基礎科学の研究者にとっては、それらの成果は主目的ではなく、あくまで波及効果であるという認識だった。そのため、その波及効果についてきちんと説明されることがあまりなかったのである。しかし、言わなければ伝わらない、というのはコミュニケーションの基本。そこで「何に役立つのですか?」の質問に至る、というわけだ。

もうひとつ、基礎科学の成果を伝えるのを困難にしているのが、そのスパンの長さにある。前述のAAAのシンポジウムで同じく講師を務めた、2008年ノーベル物理学賞受賞者の益川敏英氏は「基礎科学のイノベーションは、だいたい100年スパンと言われています」と言う。電子の発見が1897年。白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれていたのが、1950年代後半だと考えると、だいたい計算が合う。しかし、益川氏は昨今そのスパンが短くなって来ていると指摘する。「最近は、イノベーションがバイパスされいて、2、3年で利用という例も増えてきています。それは実験が大規模になるとともに、実験装置のための部品や装置が複雑になっているから。それらを開発する過程で生まれた技術が、実験成果を待たずに、製品や装置として社会に波及しているのです」(益川氏)。

例えば、インターネットの爆発的な普及を導いた「ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)」も、世界中に散らばる素粒子物理の研究者間のコミュニケーションのために、欧州合同原子核研究機関(CERN)の研究者、ティム・バーナード・リー氏が開発した技術だ。これも「イノベーションのバイパス」の一例である。ILCの研究開発でも、同様の効果が期待されている。例えば、ILCの基幹技術である超伝導加速技術は、次世代のX線画像診断装置に役立てることが可能だ。病気の診断ツールや、貨物コンテナの検査ツールなどとして、人々の健康からテロ・犯罪対策まで、幅広い活躍が期待されている。

社会への波及のスパンが短くなっているとはいえ、どのような形で波及するのか、それがいつ頃になるのか、そもそも波及するのかどうかについて、不確定であることは変わらない。このご時世「不確実なものに投資はできない」という意見が出るもの当然だろう。しかし、忘れてはいけないのは、イノベーションは「かけ算」だということだ。鈴木氏は「ゼロには10をかけようが、1億をかけようがゼロのままです。基礎研究は、ゼロから1を作り出す研究。この1からイノベーションが生まれるのです」と言う。

これまでの基礎研究で、イノベーションの種になる「1」が貯金されている。小柴氏が「何の役にも立たない」と呼ぶニュートリノも、そんな貯金のひとつ。何でも透過するこの素粒子は、物質と相互作用することが極めて稀で、観測するのも困難な粒子だ。しかし、その性質やはたらきの研究が進み、原子炉の中のモニター装置や地球内部の資源探査など、その透過性の高さを利用する研究や実験装置の試作が進められている。基礎科学の発見が将来的にどのように利用されて行くのか、あるいは役に立たないものなのか、発見時点で断言することはできない。つまり、基礎科学の貯金は「まだ役立てられていない」「役立て方がわかっていない」科学的成果なのだ。そしてそれらの成果は「何かに役立てよう」と思って産み出されたものでもないのである。

人間の知には、その時点での限界がある。「それは何の役に立つのですか?」その問いにきちんと答えられるのは、未来の科学者だけなのかもしれない。しかし、過去の基礎科学の成果がどのように今の暮らしに役立てられているのか、それをしっかりと伝えて行くことが重要だろう。