J-PARCにおいて高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所が保有する中性子科学実験装置を用いて行うプロジェクト型研究課題(S型 課題)について、平成26年度の公募が行われ、中性子共同利用実験審査委員会(1/14)にて審査された。S型課題としては、とくに以下の点について明確な計画を有することが求められる。
1. 装置の性能を最大限に引き出す先導的実験手法・解析手法の開拓及び機器開発
2. 先導的プロジェクト研究
なお、BL12(高分解能チョッパー分光器)のS型課題の公募については、東京大学物性研究所中性子科学研究施設(KENS)との共同公募である。
課題番号 | 申請代表者 | 課題名 | BL名 |
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2014S01 | 伊藤晋一(KEK) 益田隆嗣(東大物性研) |
高分解能チョッパー分光器による物質のダイナミクスの研究 | BL12 |
2014S03 | 清水裕彦 (名古屋大) |
パルス冷中性子を用いた中性子基礎物理研究 | BL05 |
2014S04 | 古坂道弘 (北海道大) |
加速器中性子源を最大限に活かす高性能領域散乱中性子装置とその基礎技術開発 | |
2014S05 | 神山崇(KEK) | SuperHRPDによる高分解能粉末中性子構造解析法の開発と機能性物質の構造解析研究 | BL08 |
2014S06 | 大友季哉(KEK) | 全散乱法による水素化物の規則−不規則構造解析 | BL21 |
2014S07 | 日野正裕 (京大KUR) |
中性子スピンエコー分光器群(VIN ROSE)の建設と高度化 | BL06 |
2014S08 | 山田悟史(KEK) | 中性子反射率法を用いたソフト界面の先進的ナノ構造解析法の開発と工業材料への応用 | BL16 |
2014S09 | 大山研司 (東北大金研) |
偏極中性子散乱装置POLANOによる静的・動的スピン構造物性の研究 | BL23 |
2014S10 | 米村雅雄(KEK) | 特殊環境中性子回折装置を使ったin situ測定による蓄電池材料の構造学的研究 | BL09 |
・ 横尾哲也氏(物構研・研究機関講師)が、1/16付けで准教授に昇任した。
・ 井深壮史氏(NIMS)が、4/1付けで博士研究員として着任予定。
Mind the "Gap" on Quantum Spin Systems
低次元磁性体に特有の「量子スピン」は古典物理では理解できない、全く新しい概念を作り出した。ハルデン状態(S=1)やスピンパイエルス転移(S=1/2)などは一次元磁性体に現れるマクロな量子状態として知られている。特に量子スピン系では、スピンSの大きさによりその状態が本質的に異なり、古典物理で信じられてきたスピンユニバーサリティーが完全に破綻しているのである。このように量子スピン系は全く新しいパラダイムとなり精力的な研究が行われているが、近年では量子スピンと電荷や軌道など他の物理自由度が結合した、より深化した状態が出現している。我々は物質生命科学実験施設に設置した高分解能チョッパー分光器を利用して、量子スピンやその他自由度におけるダイナミクスの研究を行っている。
[Finding the Gap in TiOBr -- A Novel Spin-Peierls System?]
新しいスピンパイエルス系の候補物質であるTiOX (X: Cl, Br) はTi3+のイオン状態で、(3d)1の電子配置(S=1/2)となる。図1に示すようにハロゲンを挟んだTiO面の二次元的な構造を有するが、Tiのd軌道が軌道整列を起こすことにより一次元性が生じ、その結果スピンパイエルス転移を示すことが期待されている。TiOClでは、Tc1=27KとTc2=47Kの低温での逐次構造相転移が観測され、Tc1ではb軸方向に2倍の長周期構造も報告されている。これはパイエルス転移による格子のオルタネーションによると考えられる。磁気的にも低温で磁化率の減少が観測され、量子スピン系特有な非磁性基底状態を反映したものと期待された。そこで我々はスピンパイエルス転移の直接的な証拠であるスピンギャップを捉える実験を行った。中性子非弾性散乱実験は本系のようなスピン系の励起状態を観測するのにとても適しており、特にパルス中性子では動的構造をエネルギー-運動量空間を広くマップして観測することができる。しかし本系は大型の単結晶を得ることが大変困難で、そのため多結晶試料による測定で磁気的なゾーン中心であるQ=0.9Å-1以下という小さい運動量空間での測定を行わなければならなかった。この低Q領域にアクセスするためには、小さい散乱角と高い入射エネルギーが必要であり3度程度の散乱角と200(500)meVの入射エネルギーを用いた。これは原子炉の装置では測定不可能な領域である。いくつかの条件のもとでの測定を行ったが、散乱強度が非常に弱く明瞭な磁気散乱を捉えることができなかった。軌道秩序を伴うスピンパイエルス転移は(もちろんこれまでに例がなく)非常に特殊な現象である。もし本測定で磁気散乱が観測されないことが本質であれば、スピンパイエルス転移がおきているのではなく、むしろスピン液体状態のような局在性の弱い状態が実現していると考える方が妥当である。
図1. TiOXの結晶構造。
[Finding the Gap in TiOBr -- A Novel Spin-Peierls System?]
一次元系に(動ける)電荷を注入することは大変困難である。何故なら、低温で容易に局在し、また不純物などにより伝導のパスが容易に分断されてしまうからである。しかし例えば二次元系の量子スピン状態に電荷を導入すると超伝導が発現するように、低次元性と電荷の運動は大変興味深い。我々は低次元量子スピン系に特有なハルデンギャップを有することが知られているNd2BaNiO5に電荷(ホール)を導入したNd2-xCaxBaNiO5について、スピンおよび電荷のダイナミクスの研究を行っている。電荷を少量ドープしたx=0.035の単結晶試料について、100meVの入射中性子エネルギーで非弾性散乱測定を行った。得られた分散関係を図2に示す。図中横軸のQ=0.5 (1.5, 2.5)が磁気的なゾーン中心で、明瞭なギャップ構造と分散関係が観測された。26meV近傍と38meV近傍の分散を持たない励起はその構造からNd3+イオンの結晶場励起であると理解できる。このようにハルデン系の磁気励起がBrillouin領域全域に亘って観測されたのは初めてで、第一励起状態のバンド幅、ギャップエネルギー、異方性などの諸パラメーターを決定することが可能となる。また、ギャップ内(20meV以下)をよく観察するとゾーン中心近傍に新たな構造が確認された。これまでの研究と併せて、この構造が電荷導入によって発現すること、Q=0.5を中心とした非整合構造を持つことなどが明らかとなった。今後この電荷導入によって現れる新しい構造とバンド分散として観測されている局在スピンとがどのような、温度、電荷濃度依存性を有するかを測定し、量子スピン鎖内におけるホールの役割について明らかにしてゆく。
図2. 高分解能チョッパー分光器で観測されたNd1.965Ca0.035BaNiO5の動的構造。
本装置は中性子の持つスピンを偏極さて中性子散乱実験を行い、その偏極度を解析することにより物質科学研究をおこなう装置である。KEKと東北大との共同プロジェクトとして推進し、本体設計についてはKEK機械工学センターの協力で行っている。
分光器建設
H25年度の大型工事はほぼ終了した。1月現在で、シャッター内および生体遮蔽内のガイド管の設置調整を終了。ビームライン遮蔽体、分光器遮蔽体およびビームダンプの予定している遮蔽体全ての製造と設置を終了した。現在、遮蔽体内の空調機器、照明機器などの設置工事を行っている。また、2月にPPS設置工事を行う予定である。右図は1月14日現在のPOLANO分光器の様子。手前クリーム色のH鋼は中2階の床面となる。
真空槽をはじめガイド管、チョッパー、検出器、アナライザーミラーなど重要な構成機器の仕様とその評価がほぼ終了した。
東北大案件も含めてH24年度補正予算の契約執行はほぼすべて完了した。3月末に多くの機器が納入予定である。
図3. 1月14日現在のPOLANO分光器の様子。
成果発表
Membrane formation by preferential solvation of ions in mixture of water, 3-methylpyridine, and sodium tetraphenylborate
重水と有機溶媒の一種である3メチルピリジン(3MP)の混合溶液に、陽イオンが親水性、陰イオンが疎水性のテトラフェニルホウ酸ナトリウム塩を加えた時にできるナノスケールの秩序構造について、中性子小角散乱法と中性子スピンエコー法を用いて調べた。まず塩塩濃度を変化させて行った中性子小角散乱実験では、塩濃度を60 mmol/L以上にした場合にラメラ構造が現れ、250mmol/L以上にするとスポンジ構造になることが分かった。(図5)また中性子スピンエコー実験の結果から、重水と3MPがミクロ相分離することにより3MPの膜ができていることが確認できた。更に、イオンの空間分布が非一様になることにより秩序構造が安定化することが分かった。この結果は K. Sadakane et al., J. Phys. Chem. 139, 234905 (2013). により出版された。
図4. 塩濃度を変化させた時の中性子小角散乱プロファイルの変化。
京都大学アカデミックデイ
12月21日に開催された京都大学主催の市民講座「京都大学アカデミックデイ」にて、光・量子融合連携研究開発プログラム「中性子とミュオンで調べる摩擦と潤滑」プロジェクトのポスター展示を行った。展示では中性子やミュオンといった量子ビームを用いたナノ構造観察に関する説明を行うと共に、実際に中性子反射率法を用いて明らかになった潤滑油に含まれる添加剤の吸着挙動についての例を紹介し、本プロジェクトの目的と展望についての解説を行った。展示は盛況で、大学生や一般市民だけでなく中学生、高校生といった若い層の来訪者が切れ間なく訪れた点が非常に印象的であった。
図5. 京都大学アカデミックデイにおけるポスター展示の様子。
チョコレイト・サイエンス
1月25日に物構研主催で開催されたイベント「チョコレイト・サイエンス」にて、一般市民を対象にチョコレートを題材とした実習を行った。このイベントは2012年度のサマーチャレンジで行った実習をベースとしたもので、チョコレートの食感とチョコレート中に含まれる油脂の結晶化の関係について体験してらった。具体的には、温度管理によって結晶構造が異なるチョコレートを作り分け、光沢や手触り、口溶けに違いが現れることを確認してもらった。また、結晶構造を作り分けるためには温度管理が重要であることを説明し、PFの放射光を使ってその結晶化メカニズムの研究が行われていることを解説した。アンケートの集計結果によるとほとんどの参加者がイベントに満足したと回答しており、KEKや物構研、量子ビームを使った研究についてのアピールに成功したと考えている。
図6. (左)チョコレートの結晶についての講義(中)チョコレート作成の演習(右)作成したチョコレートの光沢・溶けやすさの分布。
工事進捗状況
BL06の工事進捗状況だが、ガイド管及びディスクチョッパーの設置が昨年度中に終了し、1月中に装置の外側を覆うコンクリート遮蔽体の設置が終了する。その後、出入り口扉及びハッチ扉、ビームストッパー、偏極子遮蔽を設置し、2月中旬のビーム受け入れに備える。
図7. 1月9日時点のBL06。前置き遮蔽体が復旧され、両側面の遮蔽体が設置された。
試料環境整備
我々の日常生活に欠かすことができない高分子材料は水によってその性質が変化することが知られている。例えば、一般的にプラスチックは水によって剛性が弱くなることが広く知られている。また、燃料電池に使われるようなプロトン伝導性を持つ高分子は湿度が高いほど内部に水が蓄えられ、プロトン伝導性が向上する。このように、高分子材料を実際に使用するにあたっては、高湿度下での耐性などを理解する必要があり、この環境を模倣するための試料環境整備が急務であった。
BL16では、これまでにも湿度を調整するための試料環境整備に取り組んできたが、高湿度環境を実現するには至らなかった。そこで我々は、湿度の供給源となる水槽でバブリングした湿潤空気を容器内で循環させる機構を開発し、そのテストを行ったところ、水槽の温度を変化させることによって湿潤空気の水蒸気圧が変化し、85%程度の湿度まで上昇することを確認した。ただし、これ以上水温を上げると容器に到達する前に配管内で結露を起こしてしまったため、配管をヒーターで加熱することによってこれを抑制したところ、最終的に99%の湿度を達成することに成功した。これは吸湿性の試料がない状態での結果であるが、原理的には試料を内包した状態でも同程度の湿度を実現することができると考えられる。今後は、試料を入れた状態でのテストや湿度の安定性などの確認をした後、高分子プロトン伝導体などの実験に利用する予定である。
図8. (左)湿度制御機構の全景(右)水槽の温度を変化させた際の湿度変化の様子。ただし、容器の温度は循環水により20℃に保ってある。
SuperHRPDグループでは、震災により大きな影響を受けた長尺ビームライン建家内遮蔽体の全面改修作業が終了した。以前の遮蔽体よりもガイド管周りのクリアランスを大きく設けた事で、今後の建家の沈下やズレによるビームラインの修正を、大規模な遮蔽体移動を伴わずに実施する事が可能となった。また、装置本体の新規検出器システムのインストールも完了し、2月中旬のビーム受入れを目指して、データ収集システムとの調整を進めている。
図9. 長尺部遮蔽体と(右)新規検出器システム。
BL09蓄電池棟の増床工事を行っている。2階建ての新増設建屋となる予定であり、1階はユーザ控え室、2階は化学実験室となる。さらに2階部分で既存棟と接続し、実験ホールとの出入りが可能となる。現在は、地盤改良が終わり、1階部分床面のコンクリートが打設され、現在2階床面までの型枠作業を行っている。
図10. BL09蓄電池棟の増床工事の様子。
軽水素を多量に含む液体・非晶質試料の新しい構造解析手法の開発
中性子回折実験は水素原子の分布について知見が得られるという点で、他の実験手段には無い優れた特徴を持っている。しかし、非干渉性散乱断面積が非常に大きい軽水素を多く含む試料では、顕著な非干渉性非弾性散乱強度が大きく、干渉項を用いる構造解析の大きな障害となっている。特に、飛行時間法中性子回折では、非弾性散乱効果が観測されるself項に複雑な形状の歪みを生じるため、高精度の構造因子の導出が困難であるとされてきた。そのため、補正をより簡便にするために非干渉性散乱断面積の小さな重水素で置換した試料が中性子回折実験において用いられることが多い。しかし、水素が誘起する物性においては、量子効果、同位体効果が顕著なものも多い。水素を主な研究対象とするNOVAとしては、軽水素を多量に含む場合における、より精度の高い補正方法の確立が重要な課題である。
NOVA分光器では、検出器はほぼ完全に試料を取り巻く位置に連続的に配置されている。そこで、各々の散乱角の検出器ある特定の波長で散乱された中性子のみを抽出して、散乱強度を求め、非弾性散乱効果によるself項の歪みはQに対して単調な関数で近似することで、試料の構造情報を含む干渉項を取り出すことを試みている。図12に、内径6mmセルを用いてNOVA分光器で測定した0H2Oの散乱強度について 0.9 < λ < 1.0Åの入射中性子のみによる散乱強度のQ依存性を示す。予想通り、self項はQの増加とともに単調に減少しており、これを近似してself項補正を行なった0H2Oの2体分布関数を図13に示す。酸素--酸素相関のみを観測しており、X線の観測データと良く一致していることから、補正が良好であることがわかる。
平成26年度以降は溶質イオンを含む水溶液、メタノール、ベンゼン等の有機液体について実験を実施し、新しい非弾性散乱補正法の適用可能性を検証する。また、結晶性の物質については、非弾性散乱断面積の測定値を用いた補正の検討も行なっている。
図11. 波長0.9 ~ 1.0 Åの入射中性子のみを用いて求めた0H2Oの散乱強度。
図12. 近似関数を用いてself項補正を行なった0H2Oの2体分布関数。