KENS

KEK

月例研究報告 11月

1. 研究グループの活動状況

(1) 量子物性グループ

【 BL12高分解能チョッパー分光器HRC 】

◆ 研究成果

超酸化物NaO2のスピン・パイエルス転移

 大気中で二番目に豊富な成分である酸素は、生命活動にとって不可欠な物質であると同時に、研究対象としても古くから注目されてきた。酸素分子はS = 1のスピン磁気モーメントを有しており、低温で絶縁性の低次元反強磁性体となるほか[1]、圧力下で金属[2]、超伝導[3]、新奇磁気秩序[4,5]など多彩な相を示す。近年では酸素分子イオンO2-が磁性を担う超酸化物 AO2 (A = Na, K, Rb, Cs)にも興味が集まっている。これらにおいてはO2-の最外殻軌道π*g 軌道に3つの電子が存在することから、スピンS = 1/2の2p電子磁性体が実現されている。NaO2では、第一原理計算からc軸方向にJ = 60 meVの相互作用を有するS = 1/2一次元反強磁性鎖が予想されている[6]。また、35 K付近で大きく磁化率が減少しており、非磁性状態への相転移が示唆されている[7]。これらの先行研究は、スピン半整数一次元反強磁性鎖における磁気構造相転移、いわゆるスピン・パイエルス転移の存在を示唆する。そこで本研究ではNaO2に対して中性子散乱実験を行い、スピン・パイエルス状態に特有なギャップ励起の観測を試みた。
 実験には1gのNaO2粉末試料が用いられた。中性子散乱実験はHRC分光器を用いて行われた。2.7 Kで測定された非弾性中性子散乱スペクトルを図1に示す。Q = 1 Å-1付近に9 meV程度のエネルギーギャップをもつ磁気励起が観測された。一次元反強磁性鎖の中性子動的構造因子の一次モーメントは1-sin(Qd/Qd) (dはスピン間距離)で表されることが知られており、これによるとQ = 1 Å-1付近で磁気散乱強度は極大となる。観測された磁気励起がQ = 1 Å-1付近で強くなっていることは、NaO2一次元反強磁性鎖であることを示唆する。磁気励起のQ = 1 Å-1におけるエネルギーカットの温度依存性を図2に示す。2.7 Kにおけるギャップ励起が温度上昇により抑制される様子が観測された。ピーク強度を温度に対してプロットすると、挿入図にあるように、T = 35 K近傍でギャップ励起が消滅している。この温度は磁化率が急激に減少する温度とコンシステントである。これらの実験結果から、NaO2においてスピン・パイエルス転移が存在することが明らかとなった。
 本研究成果は、Physical Review Bに掲載された[8]。HRCでの中性子散乱実験はS型課題(2019S01)により実施された。

[1] C. Uyeda, K. Sugiyama, and M. Date, J. Phys. Soc. Jpn. 54, 1107 (1985) 1107.
[2] S. Desgreniers, Y. K. Vohra, and A. L. Ruoff, J. Phys. Chem. 94, 1117 (1990) 1117.
[3] K. Shimizu, K. Suhara, M. Ikumo, M. I. Eremets, and K. Ameya, Nature 393, 767 (1998) 767.
[4] Y. A. Freiman and H. J. Jodl, Phys. Rep. 401 (2004) 1.
[5] I. N. Goncharenko, O. L. Makarova, and L. Ulivi, Phys. Rev. Lett. 93, 055502 (2004).
[6] I. V. Solovyev, Z. V. Pchelkina and V. V. Mazurenko, Cryst. Eng. Comm. 16, 267-291 (2014) 522.
[7] A. Zumsteg, M. Ziegler, W. Kansig and M. Bosch, Phys. cond. Matter 17 (1974).
[8] M. Miyajima, F. Astuti, T. Fukuda, M. Kodani, S. Iida, S. Asai, A. Matsuo, T. Masuda, K. Kindo, T. Hasegawa, T.C. Kobayashi, T. Nakano, I. Watanabe, and T. Kambe, Phys. Rev. B 104, L140402 (2021).

 

図1. (a) 2.70 KにおけるNaO2の中性子散乱スペクトル。

 

図2. Q = 1 Å-1におけるエネルギー方向の1次元カットの温度変化。挿入図は9.4 meVにおけるピーク強度の温度依存性。

 

◆ 学会発表

  • D. Ueta, S. Itoh, T. Yokoo, T. Masuda, T. Nakajima, S. Asai, H. Saito, D. Kawana, R. Sugiura, T. Asami, Y. Ihata, H. Tanino, S. Yamauchi,
    “Sample environment of the HRC spectrometer at J-PARC”,
    11th International Workshop on Sample Environment at Scattering Facilities (ISSE workshop 2022), 28 August - 1 September 2022, Resort Hotel Laforet Nasu, Nasu, Japan.
  • 植田大地, 岩田由規, 小林理気, 桑原慶太郎, 益田隆嗣, 伊藤晋一,
    “スピンダイマー形成化合物Ce5Si3の中性子実験による磁気励起の研究”,
    日本物理学会2022年秋季大会、2022年9月12-15日、東京工業大学
  • S. Aji, T. Oda, Y. Fujishiro, N. Kanazawa, H. Saito, H. Endo, M. Hino, S. Itoh, T. Arima, Y. Tokura, T. Nakajima,
    "Spin fluctuations in a spin-hedgehog-anti- hedgehog lattice state in Mn(Si,Ge) under zero magnetic field",
    日本物理学会2022年秋季大会、2022年9月12-15日、東京工業大学
  • 齋藤開, 今布咲子, 日髙宏之, 網塚浩, 伊藤晋一, 中島多朗,
    “中性子散乱及び一軸応力下のバルク測定による金属反強磁性体CeRh2Si2のsingle-q/multi-q磁気相転移の研究”,
    日本物理学会2022年秋季大会、2022年9月12-15日、東京工業大学
  • 益田隆嗣, 長谷川舜介, 浅井晋一郎. Barry Winn, 伊藤晋一.
    “三角格子反強磁性体RbFeCl3のマグノン崩壊とその回避”.
    日本物理学会2022年秋季大会、2022年9月12-15日、東京工業大学
  • Kazuhiro Nawa, Ryo Murasaki, Clarina Dera Cluz, Shinichi Itoh, Hiraku Saito, Hiroyuki Nojiri, Daisuke Okuyama, Masahiro Yoshida, Daichi Ueta, Hideki Yoshizawa, and Taku J. Sato,
    “Magnetism of pseudospin-1/2 pyrochlore antiferromagnet Na3Co(CO3)2Cl”,
    Neutron scattering on continuous sources – future developments, US-Japan workshop, 19–21 September 2022, hosted at ORNL
  • 伊藤晋一, 益田隆嗣, 横尾哲也, 中島多朗, 植田大地, 浅井晋一郎, 齋藤開, 川名大地, 杉浦良介, 浅見俊夫, 井畑良明, 谷野弘明,
    “高分解能チョッパー分光器による物質のダイナミクスの研究”,
    日本中性子科学会第22回年会、2022年10月26-28日、幕張メッセ国際会議場
  • 植田大地, 小林理気, 澤田拓希, 岩田由規, 矢野真一郎, 國吉真伍, 藤沢唯太, 益田隆嗣, 岡田佳憲, 伊藤晋一,
    “中性子非弾性散乱実験による異常な磁気応答を示すCeTe2Seの結晶場準位の研究”,
    日本中性子科学会第22回年会、2022年10月26-28日、幕張メッセ国際会議場
  • 齋藤開, 今布咲子, 日髙宏之, 網塚浩, 伊藤晋一, 中島多朗,
    “中性子散乱及び一軸応力下のバルク測定による金属反強磁性体CeRh2Si2のsingle-q/multi-q磁気相転移の研究”,
    日本中性子科学会第22回年会、2022年10月26-28日、幕張メッセ国際会議場
  • S. Aji, T. Oda, Y. Fujishiro, N. Kanazawa, H. Saito, H. Endo, M. Hino, S. Itoh, T. Arima, Y. Tokura, T. Nakajima,
    “Spin fluctuations in spin-hedgehog-anti- hedgehog lattice states in Mn(Si,Ge) in zero magnetic field”,
    日本中性子科学会第22回年会、2022年10月26-28日、幕張メッセ国際会議場
  • 劉哲源, 荒木勇介, 有馬孝尚, 伊藤晋一, 益田隆嗣,
    “Inelastic Neutron Scattering Study on a Helimagnet Ni2InSbO6”,
    日本中性子科学会第22回年会、2022年10月26-28日、幕張メッセ国際会議場
  • 三宅岳志, 益田隆嗣,
    “励起子絶縁体候補物質Pr0.5Ca0.5CoO3の中性子非弾性散乱研究”,
    日本中性子科学会第22回年会、2022年10月26-28日、幕張メッセ国際会議場
  • 劉哲源, 井出竜鳳, 有馬孝尚, 益田隆嗣,
    “Inelastic Neutron Scattering Study on Skyrmion Host Compound GaV4Se8”,
    日本中性子科学会第22回年会、2022年10月26-28日、幕張メッセ国際会議場

 

(2) 水素貯蔵基盤研究グループ

【 BL21高強度全散乱装置NOVA 】

◆ 装置整備・開発

世界最高圧力となる21万気圧での非弾性散乱実験の成功[1]

金属水素化物は、基礎科学および産業利用において重要な物質である。特に近年は夢の「室温超伝導」に迫るほぼ室温のTCをもったsuperhydridesが高圧下で発見され多くの耳目を集めている[2]。その高いTCの起源や、さらに高いTCを持つ物質を発見するために、金属水素化物中の水素の振動状態に関する理解は重要である。それらを調べるのに、Q,E依存性を同時に調べられる水素の非干渉性散乱を用いた非弾性散乱実験(IINS)は有効である。これまでの研究から、蛍石構造をもつ金属水素化物MH2Mは金属原子)では、その水素振動励起は量子調和振動子(QHO)でよく記述され、また第一励起エネルギーE1は、金属―水素間距離(dM-H)とよい相関を示すことが明らかにされてきた[3,4](図3)。しかしながら、その正確な関係式やその起源は未だよくわかっていない。
 高圧力は、金属元素を変えずに金属―水素間距離(dM-H)を連続的に変えることができるために、より直接的な検証を行える可能性がある。しかしながら高圧下の非弾性散乱実験は一般的に信号強度が弱く、実験可能な圧力は高々数GPaに限られており、それらを議論するのは困難であった。そこで今回、パリエジンバラプレスを用いた非弾性散乱用高圧システムを開発し(図4)、これまでの約7倍となる21 GPaでの実験に成功した。これを用いて、常圧下で理想的なQHOを示す蛍石型ZrH1.8およびTiH1.84を、それぞれ約21 GPaおよび4 GPaまで加圧し、水素の振動励起を調べた。実験は、それぞれBL01およびBL21で行った。
 ZrH1.8の典型的なS(Q, E)およびそれらをQ方向に積分したI(E)を図5に示す。すべての圧力領域でQHOに特徴的な水素の振動励起が観測され、それらは圧力とともに硬くなることが分かった。またPLANETにおける回折実験で得た格子定数の圧力変化と組み合わせ、i)金属格子と水素の波動関数の広がりの関係及びii)dM-HE1の関係を明らかにした。その結果、i)高圧下で水素の波動関数が、金属格子で作られる四面体サイトよりも優先的に収縮すること、ii)dM-HE1の関係では、これまでの常圧下におけるトレンドと比較して、小さなdM-HでE1が急上昇すること(図3)が分かった。これらのことは、金属原子のイオンコアが水素原子より硬く、加圧に伴って水素がより狭いポテンシャル場に閉じ込められるために引き起こされたと考えられる。
 本研究は高圧プロジェクト課題(2016P09031, 2018P0401)、BL11装置ビーム課題(2017I0011, 2021I0011)およびKEK S1課題(2009S06, 2014S06)で行われた。

 

図3. 常圧下における種々の金属水素化物と今回明らかとなった高圧下におけるZrH1.8とTiH1,84dM-H-E1の関係

 

図4. 今回、BL01(左)およびBL21(右)での非弾性散乱実験用に開発した高圧システム。

 

図5. 高圧下におけるZrH1.8S(Q,E)(左)とQ方向に積分して得られたI(E)(右)。

 

参考文献
[1] T. Hattori et al., Phys. Rev. B 106, 134309 (2022).
[2] A. P. Drozdov et al., Nature 626, 73 (2015), ibid. 569, 528 (2019).
[3] D. K. Ross et al., Z. Phys. Chem. (NF) 114, 221 (1979).
[4] Y. Fukai and H. Sugimoto, J. Phys. F: Met. Phys. 11, L137 (1981).

 

◆ 論文等

  • T. Hattori, M. Nakamura, K. Iida, A. Machida, A. Sano-Furukawa, S. Machida, H. Arima, H. Ohshita, T. Honda, K. Ikeda, and T. Otomo,
    "Hydrogen vibration excitations of ZrH1.8 and TiH1.84 up to 21 GPa by incoherent inelastic neutron scattering",
    Phys. Rev. B, 106, 134309 (2022).
  •  Yasuo Kameda, Nana Arai, Yuko Amo, Takeshi Usuki, Jihae Han, Hikari Watanabe, Yasuhiro Umebayashi, Seiji Tsuzuki, Kazutaka Ikeda, Toshiya Otomo,
    "Neutron Diffraction with 34S/natS Isotopic Substitution Method on the Solvation Structure of S8 Molecule in Concentrated CS2 Solutions",
    Bulletin of the Chemical Society of Japan, 95, 1481-1485 (2022).
  • Toyoto Sato, Kazutaka Ikeda, Takashi Honda, Luke L. Daemen, Yongqiang Cheng, Toshiya Otomo, Hajime Sagayama, Anibal J. Ramirez−Cuesta, Shigeyuki Takagi, Tatsuoki Kono, Heena Yang, Wen Luo, Loris Lombardo, Andreas Züttel, Shin-ichi Orimo,
    "Effect of Co Substitution on Hydrogen Absorption and Desorption Reactions of YMgNi4-based Alloys",
    The Journal of Physical Chemistry C, 126, 116943-16951, (2022).

 

(3) 中性子光学研究グループ

【 BL05中性子光学基礎物理測定装置NOP 】

◆ 論文等

  • SUMI Naoyuki, ICHIKAWA Go, MISHIMA Kenji, MAKIDA Yasuhiro, KITAGUCHI Masaaki, MAKISE So, MATSUZAKI Shun, NAGANO Tomoya, TANIDA Masaki, UEHARA Hideaki, YANO Kodai, OTONO Hidetoshi, YOSHIOKA Tamaki,
    "The LiNA experiment: Development of multi-layered time projection chamber",
    Nuclear Inst. and Methods in Physics Research A, 1045, 167586 (2023).
  • 三島 賢二, 市川 豪,
    "中性子寿命の謎, 解明に向けて − J-PARCパルス中性子ビームを用いた新手法",
    波紋, 32, 114-119 (2022).

 

◆ 受賞

  • 茂木 駿紀,
    "J-PARC/BL05における中性子寿命測定実験:2022年までの中性子寿命解析の現状",
    日本物理学会, 2022年秋季大会 学生優秀発表賞, (2022-10-15).