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止まる・滑るを科学する「トライボロジー」

物構研ハイライト
2014年2月 5日

今をさかのぼること4000年前、エジプトでは超巨大建造物ピラミッドが建設されていました。ピラミッドは重さ数トンの石を積み上げた建造物で、これを組み上げるには石材を切り出して運搬する必要があります。そのまま石を運ぶのは相当な労力が必要ですが、古代エジプトの人々は木製のソリやコロ、さらには油や牛乳を地面にまくなどして効率的に運搬していたそうです。これらの道具は今でも利用されていますが、その原型が紀元前2500年のエジプトに既に存在していたというのは本当に驚きです。そして、我々はこれらの道具に改良を重ねてより良い道具を造り出してきましたが、実は摩擦と潤滑のメカニズムは未だ完全には分かっていないのです。その解明に取り組んでいるのが、トライポロジーと呼ばれる研究分野です。

摩擦面における潤滑とは

家具の転倒防止や滑り止めなど、摩擦と潤滑を利用したものは身の回りにたくさんあります。一方、工業においては、エンジンやモーター、ギアやベアリングなどの機械を摩耗させたり、熱を発生させる厄介者です。そのため、金属表面を覆って摩擦を軽減させる潤滑油が利用されています。接触面の状態は運動によって異なり、止まっている時には金属同士が直接接触していますが(境界潤滑)、動き始めると潤滑油が面に入り込み、摩擦係数が下がっていきます(混合潤滑)。そしてさらに動きが速くなると、潤滑油によって面が完全に覆われて、劇的に摩擦を減少させます(流体潤滑)。つまり、エネルギーロスを抑えるには、摩擦係数を減らすだけでなく、いち早く流体潤滑領域へ到達させることが重要だといえます。

図1 摩擦面における潤滑の分類
止まっている時:金属同士が接触。摩擦係数は高い(境界潤滑)
動き始め:潤滑油が摩擦面に入り込み、金属同士の接触が減ることによって摩擦係数は下がる(混合潤滑)
運動中:摩擦面が潤滑油によって完全に覆われ、劇的な摩擦係数の減少(流体潤滑)

タイヤのグリップ性と低燃費性 ~矛盾する性質の両立~

工業製品に求められるのは低摩擦だけではありません。例えば自動車のタイヤはブレーキをかけてから止まるまでの距離(制動距離)を短くするため、摩擦が大きくグリップ性の高いタイヤを設計する必要があります。その一方で、最近のタイヤには燃費を良くすることが求められており、走行中の摩擦(転がり抵抗)が小さいことが必要です。低燃費タイヤには、高い摩擦のグリップ性と小さい転がり抵抗の低燃費性という矛盾を同時に満たす必要があるのです。

ここで鍵となるのは運動と摩擦の関係です。
タイヤの場合、グリップ性を良くするには、素早く接触を繰り返す路面に対して、ゴムが激しく運動しエネルギーを吸収することが必要です。一方、走行中の転がっているタイヤでは、ゴムがゆっくりと動きバネのようになることでエネルギーロスを抑えます。速い運動と遅い運動によるゴムの応答を制御できれば、グリップ性と低燃費性という相矛盾する低燃費タイヤになるのです。

そして、これらの問題を解決するための摩擦・潤滑の科学が「トライボロジー」です。

図2 低燃費タイヤに求められる性能と、それに関わる分子のダイナミクス

中性子・ミュオンを用いたトライボロジー研究

摩擦・潤滑のメカニズムを根本的に理解するには、摩擦面を覆っている潤滑油の構造や、タイヤを構成するゴム分子の運動を観察することが鍵となります(ダイナミクスを用いる場合、ダイナミクスを明らかにすることが鍵となります。とするなど。)。しかし、驚くべきことに摩擦面を覆っている潤滑油は分子数層分(ナノメートル)の厚さしかないと考えられています。摩擦面という物と物との隙間で、かつこれだけ小さなスケールの構造を直接観察することは、現在の測定技術をもってしても非常に困難です。また、タイヤに含まれるフィラーと呼ばれる補強材が、相互作用しながら動いているため、広い時間・空間スケールの観測が必要です。

そのために、KEK物質構造科学研究所の瀬戸秀紀教授は中性子・ミュオンを使ったトライボロジー研究のプロジェクトを立ち上げました。

中性子は物質の内部まで透過できる特徴を持つほか、試料に入る前後の速度の変化から、分子の動きを調べることができます。これらを利用して、摩擦面における潤滑油の挙動やタイヤ中のゴム分子の動きが観察できるのです。

また、ミュオンを試料に打ち込むと試料内部でミュオンが崩壊するまでの動きを観測できます。これを利用して、タイヤ中で転がり抵抗に関係するゴム分子の動きを観測しようとしています。中性子ではゴム分子の速い動きを、ミュオンでは遅い動きを見ます。そのダイナミクスを観測する時間スケールも、中性子とミュオンでは異なり、中性子は数ピコ秒(1兆分の1秒)から数百ナノ秒(1000万分の1秒)という非常に速い動きを、ミュオンは数ナノ秒(10億分の1秒)から数十マイクロ秒(10万分の1秒)という中性子より遅い動きを見ることができます。それぞれの特徴を活かしながら、対象に適した方法で観測していきます。

トライボロジー研究に向けた測定技術の開発

摩擦面を観察するためにJ-PARCに設置されている中性子反射率計SOFIAを使用します。摩擦面のナノスケール構造を観察するには、対向した面同士をナノスケールで平行にそろえる必要があります。例えば1cm四方の面を用意したとすると、0.00001度ずれただけで両端の高さが1ナノメートルずれてしまいます。そのため、なるべく狭い領域に中性子を照射する集光ミラーを開発し、それを摩擦面の観察に利用しようとしています。

また中性子の既存の装置でタイヤ中に含まれるゴム分子の動きを見ようとすると、ゴム分子が部分的に動いている様子しか観察することができません。ゴム分子全体が動くような比較的遅い動きも観察できるように、「中性子スピンエコー分光法」という中性子のスピンを利用してダイナミクスを明らかにすることができるスピンエコー分光器VIN-ROSEを開発します。

また、鉄などの磁性材料をフィラーとして利用することで、鉄の動きをミュオンで観察しようとする、新しいアイディアも出ています。周りのゴム分子の動きによって引き起こされる鉄の運動をミュオンで観察した例は無く、実験と測定データの解釈について1から考察を行う必要があります。

図3 流体潤滑領域における皮膜形成とその観測

このように、中性子・ミュオンを用いたトライボロジー研究を行うにあたっては、測定対象に合わせて実験装置・手法の開発が必要となります。このような最先端の実験手法を開発することは、トライボロジー研究のみならず、様々な応用分野への波及効果が期待できます。今回のプロジェクトを通してさらなる応用分野へ発展していくことをご期待ください。

図4 タイヤ中に含まれるゴム分子・フィラーのダイナミクス
関連サイト

中性子とミュオンの連携による「摩擦」と「潤滑」の本質的理解プロジェクト
BL16:ソフト界面解析装置SOFIA
KEK中性子科学研究系 KENS
KEKミュオン科学研究系 MSL
高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所
J-PARC 物質・生命科学実験施設