加速器のような大型実験施設は、光源系、光学系、検出系、制御系など多くの技術が結集して初めて使えるようになる。とかく研究成果が注目されがちであるが、大型実験施設の場合、こうした技術開発と実験は両輪となって進められている。
光速近くにまで加速した電子の進行方向を曲げたとき、その接線方向に出てくる光を放射光という。リング型加速器は、その性質を利用したものでKEKにはフォトンファクトリー(PF)とPF-AR(アドバンスト・リング)がある。加速器からは赤外線からX線までの幅広い波長域の光が同時に出ており、必要な波長の光だけを切り出して実験に利用している。光源となる加速器のビーム取り出し口から、試料測定を行う実験ステーションまで30~40メートル、これをビームラインと言い、この区間にプリズムのように分光する回折格子、レンズのように集光する湾曲ミラーなどの光学素子を内蔵した一連の超高真空装置が 並ぶ。実験に必要な光の仕様に合わせ、こうした光学素子と超高真空装置を設計していくのもPFスタッフの重要な任務。それを担う一人、KEK物質構造科学研究所の豊島章雄 専門技師(図1)は、主に真空紫外線や軟X線(波長0.3 nm~200 nm程度)の光を利用するビームラインを設計、建設、調整、維持管理している。この波長域の光は、炭素固有の吸収エネルギー域(284 eV、3.8 nm~4.4 nm)も含んでおり、その吸収を利用して有機デバイスや有機系太陽電池といった有機材料などの研究に利用されている。
ところが、その光を使うために配置している一連の光学素子が炭素固有の吸収エネルギー域の光を吸収してしまい試料位置での光の強度を落としてしまうという悩ましい現象が起きていた。これは世界中の放射光施設が持つ共通の悩みで、アメリカやヨーロッパの放射光施設でも70~90%の光量低下、何も対策をしなければ2桁の光量低下が報告されている。これほど光量が低下すると実験データの質も低下してしまう。光学素子を設置している装置と光が通るパイプの中は超高真空にしてあるのだが、光学素子を設置するときに実験室内に漂う極微量の油蒸気などの炭化水素分子が真空装置内に侵入、光学素子に付着、放射光照射によって焦げ付いたと考えられる(図2)。
予防策としては、汚れの素となる炭化水素の分子を装置内に残さないこと。そのために、光学素子を設置している装置内を従来の10-7 Pa程度から0-8 Pa程度の超高真空にした。これにより汚れは低減されたが、それでも完全に防ぐことは出来なかった(図5黒線)。一度汚れてしまった光学素子を洗浄するには、超高真空を破り、光学素子を取り出して洗浄、再度組み上げて超高真空にするため、数週間の作業を要する。当然、実験中に取り出すことも出来ず、そのまま実験することを余儀なくされることもあった。
超高真空を破ることなく光学素子の炭素汚れを除去する方法は1992年に米国ウィリアム・K・ウォーバートン氏らによって提唱されていた。光学素子を設置している超高真空装置に微量の酸素ガスを導入し、分光していない強い放射光を回折格子やミラーに照射する方法。超高真空装置に導入された酸素ガスはミラー表面に吸着する。そこに強い放射光を照射すると酸素分子と光電子により活性酸素が生成され、その活性酸素と炭素が反応しCOやCO2となり回折格子とミラーの表面から脱離していく。COやCO2を真空ポンプで排気すれば装置を真空に保ったまま炭素汚染を除去できる、という原理(図3)。
だが、この方法による実用化した例は無く、実際にビームラインで行うにはいくつかハードルがあった。一つは多量の炭化水素の分子が残っていると、放射光照射によってかえって炭素汚れが進んでしまうこと。このため、炭化水素など汚れの素となる分子を極力排除しなくてはならない。もう一つは、光学素子を設置する超高真空装置中に流した酸素ガスが、ビームパイプで連結されている加速器まで流れこまないようにすること。
そこで、光学素子用超高真空装置と真空パイプから徹底的に炭素汚れの原因となるものを排除した。真空装置の内壁と真空内金属部品は電解研磨して表面に浸み込んでいる加工油を排除した。潤滑油もグリースも全て排除、真空ポンプも完全オイルフリーのものを使った。ビームライン全体を100~150℃で1週間以上熱して内壁面に残った僅かな油分子も排気し、10-8 Pa以下という超高真空を達成した。また、ビームラインと加速器の間には真空排気装置を設置して、酸素ガスを流しても加速器の真空に影響が出ないようにした。
ここまで準備を整えてから、酸素ガスをビームラインに少しずつ導入し、加速器側へのガス流出が無いことを確認し、放射光を照射した。すると、強い発光が現れた(図4)。これはオーロラと同じで、電子と酸素分子が反応して生成した励起酸素原子に由来する。真空に導入された希薄な酸素ガスとそこに照射された放射光によって、オーロラの出現条件のような環境になっていた。およそ20時間後、肉眼ではっきりと違いが分かるほどに炭素汚れは薄くなり、光量も2~5%低下にまで抑えられ、ほぼ回復したことが確認された(図5赤線)。このようにして、ビームラインの全体の光学素子の炭素の汚れを、真空を破らずに短時間で汚染除去できる手法を確立した。この技術開発のインパクトは非常に大きく、同様の悩みを持つSPring-8やあいちシンクロトロン光センターなど国内外の放射光施設でも次々と導入が検討され、いくつかの施設では成功している。
さらに、この手法の優れた点は炭素の汚れを防ぐこともできること。微量の酸素ガスを常に導入しておくと、光学素子表面に炭素が付着してもすぐにCO2、COとなって排気できる。現在、この手法はフォトンファクトリーのBL-2、BL-13に適用されており、炭素汚れがほとんどない状態が現在も保たれている。