物構研では、加速器によって作り出され様々な実験装置に送り届けられる量子ビームを使って物質構造の研究を進めています。その加速器や実験装置に欠かせないのが「真空」です。フォトンファクトリー(PF)にもたくさんの真空装置があり、超高真空を保つ工夫と努力が重ねられてきました。
1980年代にSAES getters(サエス・ゲッターズ)という会社が、超高真空を保つための画期的な真空ポンプ「非蒸発型ゲッター(NEG、ネグ)ポンプ」を開発し、PFにもそのポンプが導入されました。
PFで真空技術開発を担当する菊地 貴司 技師や間瀬 一彦 准教授を中心とするグループが、「もっと良いNEGポンプをつくろう」と思い立ち、研究開発を開始したのは2010年ごろのことです。
加速器の中では、電子や陽子などの小さな粒子が高速で動いています。その粒子の通り道に気体分子があると、せっかく加速した粒子が衝突して失われてしまいます。それで、加速器の中では気体分子をできるだけ少なくする、つまり超高真空にする必要があるのです。
また、例えば放射光施設では、軟X線のビームライン(加速器から放射された放射光を試料まで導く通り道)も光学素子の汚染を防ぐために超高真空に保っています。表面研究装置でも表面の汚染を防ぐため超高真空が必要です。
容器中を大気圧よりも低い真空状態にするための機器を真空ポンプと呼びますが、その方式によって守備範囲(真空の程度)が違うので、高い真空になるほど多くの種類の真空ポンプを使うことになります。
大気圧(1×105 Pa 程度)から 0.4 Pa 程度まで排気する場合は、装置内の空気を運び出す方式のドライポンプや油回転ポンプなどが使われます。さらに排気するためには、 ターボ分子ポンプを使います。さらに、超高真空まで排気する場合は「ベーキング」を行います。装置全体の温度を上げて、真空容器の内面に吸着した分子まで排気するのです。
しかし、ベーキング後も真空容器の内面から水(H2O)、水素(H2)、一酸化炭素(CO)、二酸化炭素(CO2)、メタン(CH4)などの気体が常時放出されます。超高真空を維持するためには、イオンポンプ、非蒸発型ゲッター(Non-Evaporable Getter, NEG)ポンプのゲッター作用を利用します。ゲッター作用とは、化学的に活性な固体表面が気体分子を吸着する作用のことで、そのような金属材をゲッターと呼びます。超高真空を維持し、ビームの減衰や光学素子の汚染を防ぐことができるので、これも真空ポンプの仲間です。ゲッター表面を新たに蒸着して再利用する蒸発型ゲッターもありますが、NEGは超高真空中で加熱するだけで再生(活性化)するゲッターです。
ちょうど水蒸気を吸着するシリカゲルのように、再生して繰り返し利用することができるNEGポンプは、オイルフリー・無振動・無騒音・省エネルギー・高速排気・非磁性といった特徴があります。電子管や、身近なところでは魔法瓶*などで利用されています。加速器の周辺では、放射光源・ビームライン・光電子分光装置などの超高真空の維持に広く使われています。
*魔法瓶:魔法瓶の内瓶と外瓶の間は、断熱のために真空になっています。 なんとそこにもNEGが! 真空を保つために小さなゲッターが入っているんです。
代表的なNEGはチタン(Ti)、ジルコニウム(Zr)、バナジウム(V)、ハフニウム(Hf)、ニオブ(Nb)、タンタル(Ta)およびそれらの合金です。
真空容器の内面にNEGをコーティングして、ベーキング後に真空容器そのものを真空ポンプにする技術をNEGコーティングと呼びます。
加速器では1998年ごろに欧州原子核研究機構(CERN)が開発したTi-Zr-Vコーティングが世界中で使われています。KEKからCERNへ成膜法を学びに行った技術者も少なくありません。しかし、その技術は敷居の高いものでした。
Ti-Zr-Vコーティングは、活性化温度が180℃以上と高く、真空にしたり大気圧に戻したりを繰り返すと吸着速度が低下することが問題でした。活性化時に、Ti-Zr-V層が酸素を取り込むため、使用しているとだんだん酸素が蓄積することが原因です。また、Ti-Zr-Vコーティングは複雑な手順を要求される成膜法なので、高価な装置に加え熟練した技術者が必要です。
PFの開発グループが、新しいNEGコーティングの開発を開始したのは2015年末のことでした。それまで実現していなかった酸素濃度の極めて低いパラジウム/チタン(Pd/Ti)薄膜層を作ることができれば、活性化温度が低く、繰り返し使っても性能が低下しないNEGになると考えたのです**。そして2017年、独自のNEGコーティング技術の開発に成功しました。無酸素Pd/Tiコーティング技術です。真空容器や真空部品の内面に、超高真空中で無酸素のTiを成膜し、それを無酸素のPdで覆って保護するという方法です。Pd膜は酸素を通さないので、これなら、Ti層に酸素が入り込むことはありません。また、PdはH2を水素原子(H)2つに分解してTiまで届ける役割を果たします。
**清浄なTi薄膜が気体分子を排気すること、清浄なPdが室温で水素分子を解離して吸蔵すること、Pd被覆材料は酸化しないことは古くから知られていました。また、Ti薄膜をPd薄膜で覆って真空材料を製作する技術は1995年に、NEGをPd薄膜で覆って繰り返し使用できるNEGを製作する技術は1998年にそれぞれ特許出願され、2004年にはNEGとして機能するPd/TiZrの論文の報告もありました。その後、ライセンス提供を受け、NEGとして機能するPd/TiZrVを利用したイオンポンプを開発して2007年に論文発表した会社もありました。
しかし2015年の時点では、実際にNEGとして機能するPd/Tiは報告されていませんでした。PFのグループは、酸素濃度が0.05%以下のPd/Tiが133℃、6時間の加熱で活性化して室温でNEGとして機能することを初めて確認し、2018年に論文で報告しています。PFのグループが開発したNEGとして機能する酸素濃度が0.05%以下のPd/Tiは、NEGとして機能しないPd/Tiと区別するために、無酸素Pd/Tiと呼ばれています。無酸素Pd/Tiは2017年に国際特許出願され、2020年9月現在審査中です。(2020年9月追記)
新しいNEGコーティングを施した真空容器は、従来よりも低い温度(133 ℃~176℃)での活性化でH2とCOを吸着でき、大気圧に戻したり真空にしたり加熱したりを繰り返しても性能が低下しないことが確認されました。また、コーティングの手順が容易なことや、低コストで利用できるという利点も併せ持ちます。H2O、CO、CH4等の残留ガスについても、ごくわずかの酸素を送り込みながら加熱することで除去することができるため、超高真空までに要する時間を短縮することができます。
NEGを取り付けた真空容器に油回転ポンプとターボ分子ポンプをつなぐ
→2つのポンプで空気を排出
→高真空になったところで、ターボ分子ポンプを動かしたままベーキング
(超高真空となりNEGが活性化される)
→真空バルブを閉めて密封、ターボ分子ポンプを止める
(NEGのゲッター作用だけで超高真空が保たれる)
さらに真空フランジ(真空容器と真空部品を接続するためのシール機能を持った蓋状の真空部品)の内面に無酸素 Pd/Ti を成膜して、真空装置に取り付けて使う新しい NEG ポンプを開発しました。既設の容器にNEGをコーティングすることは難しいのですが、このNEGポンプは多種多様な真空装置に設置できます。
新しいNEG ポンプは 150℃で 12 時間ベーキングすることにより活性化できて、汚れに強く、ダストを生じません。NEGポンプを取り付けた真空装置のベーキングによって活性化できるため、配線や専用電源が必要ありません。使用を繰り返しても排気速度は低下しません。
菊地技師は「今後、これらの技術を放射光源、ビームラインと実験装置に応用すれば、建設とメンテナンスのコストとマンパワーを大幅に削減することができます」、間瀬准教授は「産業界に技術展開し、新しいNEGポンプを普及して、電気を使うポンプの使用を減らしたい。最終的には真空関連産業におけるCO2の排出削減と国際的競争力の改善に貢献したい」と話しています。
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