原題:"Fool's Gold" May Hold Value After All
原著者:Kendra Redmond, Physics Buzz
想像を絶するような富への夢を駆り立て、そして打ち砕くことで知られるこの鉱物は、本名「黄鉄鉱」よりも「愚者の金」としてよく知られている。 その黄色味を帯びた金属光沢は古くから多くの人を騙し、結果として近代アメリカをかたち作るのに役立った (詳しくは、以下の記事を参照いただきたい ”Fool’s gold and the founding of the United States of America”)のだが、加えて、個人の幸と不幸をも左右した。 例えば、ある愚かな男が「黄金の丘」を持つ女性と結婚したところ、(お察しの通り)黄鉄鉱の丘だった、という自業自得の話もある。
黄鉄鉱には財貨としての価値はないだろうが、黄鉄鉱に全く価値がないということではない。少なくとも、潜在的価値はある。 近年、科学者たちは半導体、特に太陽電池や他の再生可能エネルギー関連で黄鉄鉱を活用できないかと考えている。 ところが、前途有望であるにも関わらず、そううまくはいっていない。 理論的な予測に比べて、光電変換効率が悪く、しかもその理由は全く分かっていない。
しかし、この効率の悪さの謎を解くための突破口が開かれようとしている。 KEKと総合研究大学院大学(総研大)による最新の研究で、材料内部に潜在する水素原子がこの問題に関係していることが分かってきた。
多くの人が、周期表の一番初めにあって最も単純な元素である水素のことを、単なる気体だとか、あるいは燃焼性のこととか、燃料電池に使われるなどと考えるのではないだろうか。 しかし、この新しい研究を主導している門野 良典 教授は、それで話は終わらないと言う。 水素はこっそりと物質中に忍び込むことができて、隠れたままいろいろな問題を引き起こす。 「水素は物質にとってまるで忍者のような不純物で、至るところにいてとても活発であるにもかかわらず、見つけることが難しい」と門野教授は言う。
半導体中に水素を埋め込むことは、ときには有用で、むしろ好都合でさえある。適正量の水素が適正な位置にあれば、水素によって構造上の欠陥による影響を減らすことができる。 しかし、特に予想外あるいは未確認の場所に水素が過剰にあると、材料の電子特性を望ましくない方向に変えることがある。
黄鉄鉱が謎の電気活性を示すことが分かってから、門野教授は、黄鉄鉱が忍者(つまり水素)の隠れ家なのではないかと考え始めた。 もしそうなら、水素を制御することで、最終的に黄鉄鉱の半導体としての潜在能力を引き出すことができるかもしれない。 物質中の水素を観測することは難しいことで知られている。特に低濃度ではなおさらだ。 そこで研究グループは独自のアプローチを始めた。それが、ミュオンの注入だ。
ミュオンは素粒子の一つで、電子の仲間だ。電子と同じ大きさの電荷を持つが、質量は電子の200倍もある。 ミュオンは通常は宇宙線などによって生成されたときに存在を確認できるが、物質の構成物として観測されることは決してない。 たいていの素粒子のように、ミュオンも同じ質量で反対の電荷を持つ反粒子*を持つ。 そのため、正の電荷をもつミュオンには「ポジティブミュオン(正ミュオン)」といういい名前が付いている。 正ミュオンは比較的重いので陽子と似ていて、うまく水素の原子核になりすますことができる。 偽物は、正電荷で電子を引きつけて(水素原子に似た)風変わりな原子になることで、一段と本物らしくなる。 門野教授とその仲間はこのような元素としてのミュオンの性質を表すために「ミュオジェン*」という言葉を用いているが、これが彼らの研究の鍵だ。
*反粒子:全ての素粒子が、それと同じ質量を持ち、電荷などの符号が正負反対の素粒子を持つと考えられている。
*ミュオジェン【Muogen】:「原子」は物質の構造を表す言葉であるのに対し、「元素」はその性質を表す言葉である。「ミュオジェン」は、元素としての水素(Hydrogen)に対応する元素名として提案されている。
基本的な考えはこうだ。ほかの素粒子と同様に、ミュオンもスピンと呼ばれる物理量を持つ。 スピンの向きが揃ったミュオンを物質に打ち込んで、ミュオンスピン運動の時間変化を計測すれば、ミュオンの電子状態に関する情報を得ることができる。 物質中に打ち込まれ電子を引きつけた正ミュオンすなわち「ミュオジェン」が本物の水素によく似ているので、ミュオジェンを観測することで、調べるのが難しい水素原子の電子状態について推論することができるのだ。
この方法によって試料が水素を含むかどうか分かるわけではないが、そこに水素原子が存在した場合の電気的特性を知ることができる。 実験結果と、対象物質中に水素がある場合とない場合の理論的予想とを比べることによって、「忍者」が潜んでいるか判別することができるのだ。
研究者たちは天然の黄鉄鉱の塊から実験を始めた。鉱石を板状に切り、あらかじめその一般的な物性を調べた。 そしてJ-PARCとカナダの粒子加速器研究所 TRIUMFにおいて、異なる実験条件で黄鉄鉱の板にミュオンビームを照射し、注入されたミュオンの挙動を調べた。
実験データによると、注入されたミュオンはいずれも電気的活性を持つ2つの異なる電子状態にあることが分かった。 これは、もし水素原子が潜在していれば、それが黄鉄鉱の電気的特性を変えてしまうことを意味する。 水素が複雑に絡み合う効果によって、黄鉄鉱が示す「不可解な電気特性」の一部または全部が説明できる可能性が大いにある。 つまり、それこそが黄鉄鉱の半導体としての潜在能力が活かしきれていない理由かもしれないのだ。
この研究の次のステップは、黄鉄鉱の中に隠れた水素が、なぜそのようにふるまうかの徹底的な理論的解析だ。 理論からの推測値と実験結果との比較によって、「愚者の金」の真の潜在的価値が明らかになるかもしれない。
論文情報:“Local electronic structure of interstitial hydrogen in iron disulfide,” H. Okabe, M. Hiraishi, S. Takeshita, A. Koda, K. M. Kojima, and R. Kadono, Phys. Rev B 98, 075210 (2018).
関連サイト:物構研 ミュオン科学研究系 局所スピン相関物性グループ
転載情報:講談社ブルーバックス 2020.03.18 驚くべき「水素の隠れ家」! 「愚者の金」が賢者に研究されるワケ(物質構造科学研究所)