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令和3年度 物構研退職記念最終講義が行われました

物構研トピックス
2022年4月28日

3月31日、「令和3年度 物構研退職記念最終講義」がウェブセミナー形式で開催されました。279名の事前参加登録があり、当日の参加者は225名でした。

プログラム等はこちら:2022年3月31日開催 令和3年度 物構研退職記念最終講義


最初に物構研 小杉 信博(こすぎ のぶひろ) 所長からご挨拶とお二人の簡単なご紹介がありました。

続いて、放射光実験施設 運営部門の兵藤 一行(ひょうどう かずゆき)教授から「『夢の光』を⽤いた医学イメージング研究」と題して、放射光単色X線を用いた各種医学イメージングシステムの開発と評価に尽力した研究者としての歩みに関する講演がありました。

兵藤先生は筑波⼤学第⼀学群⾃然学類在学中に放射光を知り、同大学修士課程医科学研究科の大学院に進学しました。同大学博士課程医学研究科在学期間中にはKEKの受託学生も経験され、博士論文「加速器を用いた新しい医用画像診断システムの開発」が認められ医学博士を授与されました。

1986年に放射光実験施設助手として着任されてからは、研究成果の情報発信により、基礎医学と臨床医学・日常臨床の間の知見の交換という役割が放射光実験施設にはあると心がけ尽力されました。

冠動脈診断システムの開発とその臨床応用研究では、それまで動脈から注入していた造影剤を静脈から注入し、単色X線で撮影することにより、より安全で簡便な検査法を開発しました。静脈から注入された造影剤は肺循環などで濃度が希釈されてしまい、通常のX線で撮影しても冠動脈は撮影できません。しかしPF-AR NE1が発する単色X線では可能です。患者さんの胸に造影剤中のヨウ素がよく吸収する波長0.38Å(K吸収端)より少しエネルギーの高いX線を照射し撮影します。この診断方法は筑波大学とKEKの共同プロジェクトとしてスタートし、世界初の2次元動画像イメージングによる臨床応用に成功しました。1996年のことです。

兵藤先生はこの臨床応用の実現やその後の各種イメージングシステム開発において、放射光ビームライン担当者として、また医学物理の研究者として、放射光加速器科学、臨床医学、基礎医学、画像工学、産業応用といった異分野の研究者を集めた多くのバーチャル研究室を構築し、放射光利用研究の推進を図るとともに、人材育成や学生の教育にも携わりました。大学共同利用機関としての特長を活かすこともできたとのコメントがありました。

先生は医学イメージングシステムによって得た多くの知見を他分野に広め、人々の幸福で安定した生活に繋げたいと考えてこられました。発表スライドには多くの方のお名前が挙げられ、終始感謝の言葉を口にしていました。人と人との繋がりを大事にする人柄が素晴らしい研究成果を生み出したと言えるでしょう。

最後に学生の皆さんへと題し、次のメッセージを送りました。
その道の達人ができるといった
ことは必ずできるだろう。
でも、その道の達人ができない
といったことは、やってみる
価値があるかもしれない!!!


続いて、 門野 良典(かどの りょうすけ)教授から「研究人生のおくりもの」と題して40年の研究人生を振り返る講演がありました。

生涯現役の看護師として勤め上げたお母様は情操教育に熱心で、絵画教室や音楽教室に通われました。先生が小学校1年生の時、突然玄関先に、学習研究社の「標準 学習百科大辞典」全9巻が届いたそうです。読書家のお父様からのプレゼントでした。理科分野を読みふけり、理系少年になったことが研究者の原点となりました。

東京大学理科Ⅰ類から進学した物理学科ではノーベル賞受賞者の小柴 昌俊(こしば まさとし)教授(当時)、文部大臣を勤めた有馬 朗人(ありま あきと)教授(同)など錚々たる顔ぶれながら、権威主義的なところが全くない教授陣、後に各分野で活躍することになる個性的で愉快な同級生(その中には徳宿 克夫(とくしゅく かつお)前KEK素核研所長も)に恵まれ、充実した学生生活を送りました。

偶然にも、門野先生が大学に入学したその年に、山崎 敏光(やまざき としみつ)教授(当時)が東京大学理学部付属中間子科学実験施設(UT-MSL)を創設しました。現在の大強度陽子加速器施設(J-PARC)物質・生命科学実験施設(MLF)ミュオン科学実験施設(MUSE)の前身となる施設です。縁あって山崎教授、永嶺 謙忠(ながみね かねただ)助教授(同)らの研究室の院生となった門野先生は、競合がなく自由にやれそうなUT-MSLでの研究に惹かれ、ミュオン利用をテーマとして研究人生をスタートさせました。(湯川秀樹に憧れた高校生は、こうして「中間子」に関わる研究に従事することになったという訳です。)

門野先生は山崎先生、永嶺先生の指導の下で金属中のミュオンの量子拡散というテーマに取り組み、低温で温度の低下とともに拡散係数が緩やかに増大することを突き止めました。これは近藤 淳(こんどう じゅん)先生(当時電総研)山田 耕作(やまだ こうさく)先生(当時京都大学理学部)による「金属中の荷電粒子の量子拡散における伝導電子の非断熱効果」の理論と合致し、注目を集めることになりました。

その後、東大理学部助手(1985年、博士課程中退、1987年に論文博士)を経て、ポスドクとして赴任したカナダの研究機関TRIUMF(トライアムフ)では、上司であったロバート・キーフル博士との共同研究で絶縁体結晶中のミュオニウムの量子拡散を発見し、これを機に当座の主要研究テーマを「量子拡散」と定めました。

1990年〜1997年には理化学研究所に所属し、永嶺先生が推進する日英協力で活躍された後、1997年、物質構造科学研究所に教授として着任されました。その間も近藤先生とは研究上の交流が続きました。先生がKEKに着任されてすぐ、近藤先生のセミナーを企画しましたが、急なアナウンスだったため参加者がほとんど集まらず、また間の悪いことにKEK 池田 宏信(いけだ ひろのぶ)教授(当時)の研究会と重なっていました。門野先生は頭を抱えたそうです。しかし事情を察知した池田先生が自身の研究会を中断して出席者全員を連れて近藤先生のセミナーに参加してくださったそうです。池田先生はその翌年急逝されました。近藤先生はこの最終講義直前の3月11日に鬼籍に入られたところでしたので、門野先生はお二人との思い出を話しながら言葉を詰まらせ、池田先生の告別式で奥様が紹介された池田先生の言葉「研究者が研究をやらなくて誰が研究をやるのか」を胸に刻んだと振り返りました。

門野先生はその後研究テーマを磁性・超伝導に転じると共に、J-PARC MLFのMUSE建設に携わり、またさまざまな研究プロジェクトで活躍され、世界のミュオン研究を牽引してきました。最後に「巨人達の肩に乗って 多くのすばらしい出会い、ワクワクする研究人生に恵まれました。 研究に関わった全ての方々に深く感謝申し上げます」と述べ、若い皆さんへの言葉で締めくくりました。

Sir W. Bragg's Three Rules:
Don't try to revive past glories.
Don’t do things just because they are fashionable.
Don’t be afraid of the scorn of theoreticians.

その後、会場で花束贈呈が行われ、雨宮 健太(あめみや けんた)副所長の閉会の挨拶で退職記念最終講義は閉じられました。