
ご無沙汰しております。
よろしくお願いします。

お元気そうで何よりです。
それでは、さっそく始めましょう。前回は、水素分子の分光実験で陽子のスピンが分かった話をしたんですよね。

前回はちょっと難しかったけど、どうやら陽子はパウリの排他律に従うフェルミ粒子でスピンが1/2らしいということまで分かりました。
水素分子ガスのシュテルン・ゲルラッハ実験

もう一つの証拠として、陽子にスピンがあることを証明した「シュテルン・ゲルラッハ実験」を紹介しましょう。
わたスピ3と
わたスピ4で考えたシュテルン・ゲルラッハ実験では、飛ばされていたのはたしか銀原子でしたね。

はい。以前考えたのは電子のスピンを見る実験だったので銀原子でしたが、今回は「原子核」を見るための実験なので、水素分子を使いました。

なるほど。
堀 健夫さんの分光実験と理由は同じですね。電子のスピンは打ち消し合ってしまうので考慮しなくていい。
水素分子

そうです。
水素分子のシュテルン・ゲルラッハ実験は、1930年代の初めにオットー・シュテルンと助手のイマニエル・エスターマン、オットー・ロベルト・フリッシュたちが行いました。
陽子のスピンによる磁気モーメントは電子スピンのそれのおよそ1/2000の大きさなんですよ。
ですから核スピンによる磁気モーメントの測定は難しかったと思います。

シュテルン・ゲルラッハ実験って、粒子がどの方向に飛ぶか? っていう実験にゃ。
曲げる力が弱かったら、曲がったかどうか見えないんじゃにゃいの?
シュテルン=ゲルラッハの実験

その通り。曲げる力の強さは「磁気モーメントの大きさ」×「磁場の変化率」なんだ。
電子に比べて陽子の磁気モーメントが小さいから、急激に変化する磁場をかけて精密な実験をしなきゃならないんだよ。

急激に変化する磁場?

場所による磁場の大きさの差が大きいということだよ。
わたスピ3では「不均一な磁場」と説明してましたね。

先生、曲げる力の強さは何とかって式は初めて聞いたかも。

えーっと、教科書の第2章 2-1節で出てきます。
電場から電荷が受ける力と式の形が似ています。

ここは飲み込め、ということね。

そうしていただけるとこの場は助かります。

そういえば、
わたスピ5の銀原子のシュテルン・ゲルラッハ実験では核スピンのことは話題にもならなかったニャア。

そうだった。失礼しました。
「銀の原子核のスピンはとても小さいので無視できます」と付け加えます。

了解ニャー。

シュテルンは、プラハ大学でのアインシュタインの最初の弟子と言われてるんだ。
シュテルンの実験の意義を理解しない学者もいて、
このときパウリは、

「結果が分かっている実験は時間の浪費だ」
とまで言ったらしい。

パウリはボーアの同僚だったと言っていたわね。
「物理学の教皇」アインシュタインと「量子の王」ボーアの論争の火花がここにも?

そう発言したというのは有名な逸話ではあるんですが、パウリとシュテルンは理論家と実験家としてかなり密接で良好な関係だったそうです。だからパウリも忌憚なく言いたいことを言ったんでしょうね。

へぇ、そうなんだ。

それに、パウリの発言には理由があるんですよ。
まず、当時はまだ陽子の正体がよく分かっていなかった。電子の「反粒子」だなんて考える人もいたそうです。

あれ?電子の反粒子って…

電子の反粒子は、正しくは、電子と符号が逆で質量が同じ、
陽電子だよ。
陽電子の発見は1932年と言われているけど、シュテルンが実験を始めたのはその前だから、まだ陽子が電子の反粒子だと信じていた人もいたころだね。

粒子とその反粒子が出会うと消えちゃうんじゃなかったんでしたっけ?
水素って陽子と電子でできてるわけだから…

いや、例えば、現在では電子と陽電子が対になって「原子」のような状態を作る「ポジトロニウム」が確認されているんだよ(物構研の低速陽電子実験施設の
プレスリリースを見てね)。
だから、あながちおかしな考え方とも言えないんだよ。

では、パウリの発言の意図に話を戻しますよ。
電子の磁気モーメントの大きさは、その質量に反比例することが分かっています。

質量が大きくなるほど、磁気モーメントは小さくなるってことね。

J.J.トムソンの比電荷の実験のときには、水素イオン(つまり陽子)が電子のおよそ2000倍の質量を持つことが分かっていました。
陽子の磁気モーメントがその質量に反比例するとすると、陽子の磁気モーメントは電子の約2000分の1だということになります。

だからパウリは、分かり切ってることを実験する必要はないと言ったのね。
それでもどうしてシュテルンたちは実験をやろうとしたんだろう?

計算で分かっていると言われていることでも「実際に測ってみたら違ってた」ということはそれまでにも例がありました。
理論家が何と言おうと、「やってみなけりゃ分からない」からじゃないかな。

うん、陽子にもディラックの理論が適用されるのか、という興味だね。

「ディラックの理論」って?

初めに言った「磁気モーメントは質量に反比例する」ということを導き出す理論のことですね。

なるほど。論より証拠ね。
じゃ、実際どうやってその小さいスピンを検出できたの?

磁石の構造を工夫して大きな不均一磁場を作り出すことができたからです。
また、氷点下183℃という低温での実験に成功したことで、精度の高い測定ができるようになったようです。

氷点下183℃ってことは、絶対温度90 K にゃ。
板倉博士の徹底解説

さて、今回の教科書(ブルーバックス『「スピン」とは何か』)の第3章でもある程度は説明しましたが、わたスピでは徹底的に理解したいということなので、教科書よりも少し踏み込んだ説明をしましょう。

そうこなくっちゃ!
お願いします。

前回の
わたスピ7のデニソンのところで、水素分子には2つの異なる状態「オルソ水素」と「パラ水素」があると話したのを覚えていますか。

ええ、もちろん。
オルソとパラの意味をみんなで考えました。

オルソは二つの陽子のスピンが同じ向きにそろった状態、パラというのはスピンの向きが互いに逆になった状態でした。
パラは「反対の」という意味で、パラドックス(逆説)のパラと同じです。

うんうん。

そのパラ水素の状態を考えましょう。
陽子のスピンは互いに逆向きなので、スピンの寄与はありませんね。
それでも、陽子が互いのまわりをまわることで磁気モーメントが生じます。
わたスピ2でやったような…。
スピンじゃなくて「公転の磁気モーメント」ってやつかしら。
ね、村上先生?

はい。陽子は電荷をもっているので、ぐるぐる回ると電流が流れて小さな磁石になるんですね。

さらに、量子力学的には、この公転運動は最も低いエネルギーのとき角運動量がゼロなので、磁気モーメントを持っていないと見なせます。
本当は互いの周りを回っているのですが、量子力学での最低エネルギーのときは、あたかも回っていないようになるのです。
一方、温度が高くなるとだんだん大きな角運動量の状態が励起され、磁気モーメントを持つようになります。
パラ水素とオルソ水素の角運動量と存在比(シュテルンらの論文の表より作成)

えーっと、この表を見ると、
低温の90 Kではパラ水素もオルソ水素もℓが2種類だけど、それに比べて高温の291 Kでは3種類に増えるってことね。

そうです。表の中のℓは軌道角運動量の大きさを表します。
90 Kでのパラ水素は、ほとんど(98.3%)がℓ=0 の状態ですね。

でも、291 Kだと、ℓが2や4の状態が出てくるにゃ。

温度が高くなるとだんだん「公転の磁気モーメント」を持つようになる・・・。

ポップコーンみたいだニャ。フライパンが熱くなると勢いよく飛び出そうとするコーンの数が増えてくニャ。
まずはパラ水素

そうそう。そんなイメージです。
まとめると、低い温度と高い温度でパラ水素に対してシュテルン=ゲルラッハ実験を行い、その分裂の様子を測定すると、公転運動に起因する磁気モーメントの大きさを決定することができるのです。

なるほど。スピンの影響がないパラ水素で、温度だけを変えて実験すると、その違いが公転運動によるものだと言えるのね。

そうです。
さらに、この図は、1933年のシュテルンたちの論文にあったものなんですが、(軌道)角運動量が2のパラ水素に対してシュテルン=ゲルラッハ実験をしたときに得られる分裂の様子です。
角運動量ℓが2のときは、
2ℓ+1=5
で、5つの状態に分裂します。磁気モーメントの大きさは、この分裂の幅S
Rに相当します。
パラ水素の分裂の様子(シュテルンらの論文より)

ちょっと待った!
「2ℓ+1=5」って何でしたっけ?

えー、コホン。教科書の第3章 3-3節 水素分子のシュテルン=ゲルラッハの実験のページを開いてください。

開いたニャ。

じゃあ、この辺りから声に出して読んでみて。
磁場がかかっていなければ、角運動量の大きさがℓである状態は、2ℓ+1個の異なる状態が同じエネルギーを与えますが、磁場中ではこれらの状態は異なるエネルギーをもつことになり、それがシュテルン=ゲルラッハの実験でのビームの分裂数を与えます。(以上、『「スピン」とは何か』より引用)

角運動量が2のパラ水素だからℓ=2。
2ℓ+1=5にゃ。

分裂数が5。
5つに分裂して見えるんですか?

ひとかたまりにも見えるにゃあ。

この分裂の幅S
Rが小さいと、ひとかたまりに見えますが、それを技術でぐわっ!と広げたのです。

ぐわっとニャ。

1922年の銀原子を使ったシュテルン=ゲルラッハ実験から、水素分子での実験までおよそ10年。精密な実験のための技術革新も必要だったのかもしれないわね。
続いてオルソ水素

次に、オルソ水素を考えましょう。
今度は2つの陽子のスピン1/2が同じ向きなので、合わせてスピンが1の状態です。
ですが、ここでも互いが互いを回る公転運動による角運動もあって、温度が高くなるとその運動が混ざってきます。

複雑なのね。さっきのパラ水素の方が簡単だった。

そうです。まさにそこがポイントなんです。
パラ水素の実験から、その公転運動による磁気モーメントの大きさは分かっているので、オルソ水素に対してシュテルン=ゲルラッハ実験をして得られる分裂のパターンから、陽子スピンの寄与だけを見出すことができます。

オルソの場合も、公転運動はパラと同じと考えていいのかしらね?

オルソとパラは、スピンの向きが違うだけなので、公転運動の寄与は同じと考えていいです。

そうなのね。陽子スピンの効果があるオルソ水素と、ないパラ水素の実験結果を組み合わせて、やっと陽子スピンだけを見ることができるんだ。

複雑なものも、二段階に分けると見えてくるんだにゃ。

この図は、オルソ水素の、公転運動による磁気モーメントと陽子スピンによる磁気モーメントが共存しているときに得られるであろう分裂のパターンを示しています。
S
Pというのが、陽子のスピンによる磁気モーメントの寄与を表していますが、その大きさは先ほど話した公転運動の磁気モーメントの大きさS
Rとは異なります。
オルソ水素の分裂の様子(シュテルンらの論文より)

9つの状態があるってこと?

そうですが、陽子のスピンの寄与としては3つに分かれているので、これはスピン1の状態の図になります。

シュテルン=ゲルラッハの実験でのビームの分裂数は3。

さっきの式が使えるの?
なら、2ℓ+1=3にゃ。

ってことは、ℓ=1!
角運動量の大きさは1。

つまり、3つに分かれると、スピン1二ャ!

それで、結局実験したらどうなったわけ?

精密な実験の結果、水素分子のビームは大きな構造としては3つに分かれたそうです。

にゃんと。じゃあ、上のパターンと同じじゃにゃいの。

銀原子のときは2つだったニャ。

3つに分裂したということは、スピンが1ということで、それは1つの陽子のスピンが1/2であることを意味しています。

にゃ〜るほど。結局、電子と同じ。

シュテルンたちは、特定の速度の分子を選ぶために、放射状のすきまを刻んだ回転ディスク2枚を通りぬけさせるという工夫もしたそうですよ。
物理の教科書にも載っている「フィゾーの歯車」という仕組みですね。

銀原子のシュテルン・ゲルラッハ実験に比べるとものすごく精密な感じがするわね。

この分裂の幅や、先に行われた比熱実験と分光実験の結果も考慮した結果、陽子のスピン磁気モーメントを算出することができました。
そうしたら、ディラックの理論から予想される値の2.5倍であることが分かったんです。

パウリも大外れだったということね。

はい。
私は理論家ですが、予想が外れるというのは悔しい反面、今まで考えが至らなかった新しいことがあるのかとワクワクもします。
実際、現在は「ディラックの理論が陽子に単純に適用できないのは、陽子が素粒子ではないからだ」と考えられているんです。

素粒子でないということは、陽子の中に構造があるということですね?

そういうことです。
陽子の中がどうなっていると考えられているかは、教科書の第4章の最後で詳しく説明しましたので、後で読んでみてください。
さて、これで陽子のスピンの存在も直接証明できました。いかがでしょう?

素晴らしい!
陽子にもスピンがあることも確かめられたし、ディラックの理論が単純に適用できないことも分かって、さらに陽子の中身についての謎も増えたということね。
シュテルン=ゲルラッハ実験の威力を改めて確認できました。

やってみなけりゃ分からないけど、やってみるともっと分からなくなるんだニャー。

そうやって科学は発展してきたんじゃないのかにゃ〜。
科学者たちをとりまく世界情勢

ところで、堀さんの分光実験の舞台はコペンハーゲンだったけど、シュテルンたちはどこで実験をしたの?

ドイツのハンブルク大学です。

ちょうどそのころ、ドイツではナチスが台頭してきたんだ。
シュテルンもエスターマンもフリッシュもユダヤ系だった。

なんと。実験どころじゃない時代だったのね。

ナチスの恐怖が迫る中、決死で行われた実験ということになりますね。

彼らが論文を書き上げた1933年は、ヒトラーが政権を握った年だよ。
プロイセン科学アカデミーはアインシュタインを除名し、ナチスは資産を差し押さえ、逮捕しようとした。シュテルンは実験が行われたその年に、弟子たちをそれぞれ安全な研究所に送り込み、アメリカに渡っている。

そのあとノーベル賞を受賞したのね?

そうです。オットー・シュテルンはアメリカのカーネギー工科大学教授となって、実験から10年後の1943年に「分子線の手法の開発への貢献と陽子の磁気モーメントの発見」でノーベル物理学賞を受賞します。物理学賞の授与自体が4年ぶりでした。

太平洋戦争の真っただ中ね。

ちょうどその年、ボーアもオットー・フリッシュもアメリカのロスアラモス研究所に赴任したんだ。

ちなみに、フリッシュの叔母さんは核分裂という現象を世界で最初に発見した物理学者リーゼ・マイトナーなんです。
その後、フリッシュはウランによる原子爆弾が可能だということを理論的に明らかにし、ロスアラモス研究所ではマンハッタン計画で重要な役割を果たしました。

そうなんだ。
戦争から逃げたつもりが、飲み込まれた科学者も少なくなかったのよね。
そういえば、ゲルラッハはどうなったの?

シュテルン=ゲルラッハ実験は、スピンの発見には欠かせない実験だったからね。普通に考えれば、ノーベル賞ものだよね。

そう、実はシュテルン=ゲルラッハ実験はノーベル賞を受賞していません。
ゲルラッハはナチスに深く関わっていたと言われているので、ノーベル賞候補にならなかったという説があります。
社会的情勢にとらわれず、純粋に科学的価値を測るということがいかに難しいかが分かる例ですね。
おわりに

う~ん、とうとう陽子のスピンの存在も解明されちゃったわね。あらゆるところでスピンが役割を果たしていることが分かりました。
2018年にスタートしたこの問答も、ここでひとまず「ガッテンしました!」ということかしら。ずいぶん、かかっちゃったけど。

母上、先生たちも異動があったし、なんたって、コロナ禍があったじゃん。
継続は力なり。母上が「ガッテン!」できてめでたしめでたし、だよ。

本当に。
先生方には、すごく「分からせるための表現の工夫」をしてもらっちゃったわね。いろんな実験のお話は面白かったし、そういう実験装置を編み出して歴史を作ってきた科学者たちのすごさもよく分かりました。
けどね・・・

けど??

現象の説明が、見た目の実験結果ではなくて、数学的に導かれるのって、不思議だなあ、と。
いまの量子の物理学って、「数式で〇〇が成り立つなら、リアル世界でもそうなっているはず」と見るのね。そしてそれがその通りなんだから、恐れ入っちゃう。

ともあれ、先生方、編集にあたってくれた物質構造科学研究所のみなさん、助けてくれた源次郎とシュレ子ちゃん、「私にスピンをわからせて」くれて、どうもありがとう!
はてな?も多かったけれど、楽しい「ガッテンへの旅」でした!